第8話 戦場にかける強制お昼寝
とろりとした熱い蜂蜜のような魔力が、私の胸の奥で飽和していくのを感じた。
目の前には、三万の軍勢。
彼らは血走った目で剣を振り上げ、こちらへ殺到してくる。
巻き上がる砂煙。
鼓膜を揺らす雄叫び。
普通なら死を覚悟する光景だ。
けれど、私には彼らが「走り疲れて、今すぐベッドにダイブしたい人々」にしか見えなかった。
「……ふう」
私は小さく息を吐いた。
呼吸に合わせて、体内の魔力回路がカチリと切り替わる。
いつもの「自分だけ眠るための魔法」ではない。
世界を強制的にベッドルームへと変える、大規模干渉魔法だ。
「皆さん、顔色が悪いですよ。目の下のクマ、酷いです」
私の声は、戦場の喧騒にかき消されることなく、不思議と戦場全体へ染み渡った。
それは耳ではなく、脳の深い部分に直接響く子守唄だ。
私がゆっくりと両手を広げると、視界が淡いピンク色の光に染まった。
「『エターナル・シエスタ(強制午睡)』」
世界が、スローモーションになった。
最初に異変が起きたのは、最前線の騎馬隊だった。
勢いよく走っていた馬たちが、急にいななきを止め、トロンとした目になって速度を落とす。
「ど、どうした! 進め! 止まるな!」
騎士が手綱を叩くが、馬はその場に足を止め、心地よさそうに首を垂れた。
そして、そのままゴロンと草原に横たわる。
「なっ……馬が寝た!?」
「おい、しっかりしろ……ふぁ……」
騎士が叫ぼうとして、言葉の途中で大きなあくびをした。
「……あれ? なんだこれ……まぶたが、重い……」
剣を持っていた手がだらりと下がる。
カラン。
金属音がして、剣が地面に落ちた。
「……ちょっとだけ、横になろうかな……」
「そうだな……五分だけ……」
騎士たちは次々と馬から降り、あるいはその場で崩れ落ちるようにして、草の上に大の字になった。
その連鎖は、パンデミックのように後続部隊へと広がっていく。
「敵襲だ! いや、これは……毒ガスか!?」
中列の兵士たちが慌てふためくが、その動きも鈍い。
彼らの周囲に、シャボン玉のような魔力の光が漂う。
パチンと弾けるたびに、ラベンダーとホットミルクの甘い香りが広がる。
「……いい匂いだ……母さんのシチューみたいだ……」
「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ……」
「……もう、明日から頑張ればいいや……」
殺気立っていた兵士たちの顔から、険しい皺が消えていく。
彼らは武器を枕にし、マントを布団代わりにして、幸せそうな顔で夢の世界へと旅立っていく。
戦場は、一瞬にして巨大なお昼寝広場へと変わった。
「ば、バカな! 何が起きている!」
唯一、必死に抵抗している人物がいた。
ソレイユ王子だ。
彼は自身の太ももを短剣で突き、必死に覚醒を保とうとしていた。
「寝るな! 起きろ! 勤勉であれ! 太陽が昇っている間に眠るなど、重罪だぞ!」
彼はふらつく足取りで私の方へ歩いてきた。
その目は虚ろで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「スリーピア……貴様、どんな妖術を……」
「妖術ではありません。休息ですぅ」
私は憐れむように彼を見た。
「殿下、あなたは頑張りすぎです。幼い頃から『天才』と呼ばれ続けるために、裏で必死に努力して……誰にも弱音を吐けずに」
「う、うるさい……僕は、完璧な王子でなければ……」
「もういいじゃないですか。ここでは誰も、あなたを責めたりしませんよ」
私がそっと手をかざすと、さらに濃密な眠りの波動が彼を包んだ。
ソレイユ王子の膝がガクンと折れた。
「……努力……むり……」
彼は糸が切れた操り人形のように、パタリと倒れ込んだ。
そしてすぐに、誰よりも大きなイビキをかき始めた。
「……ぐー……むにゃ……僕の銅像を建てろ……」
どんな夢を見ているのやら。
私は呆れつつも、これで平和的解決だと安堵した。
周囲を見渡せば、三万人の兵士全員が、穏やかな寝息を立てている。
死者はゼロ。
怪我人も、寝相が悪くて転がった人くらいだろう。
「……終わりましたぁ」
魔力を使い果たした私は、その場にぺたんと座り込んだ。
さすがに疲れた。
今なら私も、三秒で寝落ちできる自信がある。
「……とんでもない女だ」
背後から、呆れたような、それでいて熱っぽい声が聞こえた。
カイザー陛下だ。
彼は馬を降り、倒れそうな私を背後から支えてくれた。
「三万の軍を、指先一つで無力化するとはな。俺の剣の出番がないではないか」
「平和が一番です。それに……」
私は陛下の腕に頭を預け、見上げた。
「陛下に怪我をしてほしくありませんでしたから」
その言葉に、陛下の目がわずかに見開かれた。
彼は口元を手で覆い、顔を背ける。
「……っ、貴様は本当に……」
耳まで赤くなっているのが見えた。
狂犬皇帝も、私の不意打ちには弱いらしい。
「勝負ありだな。ソルネア軍の完敗だ」
陛下は私を軽々と抱き上げた。
「帰るぞ、スリーピア。英雄の凱旋だ」
「はい……。でもその前に、陛下」
「なんだ?」
「帰りの馬車まで、おんぶしてくれますか? もう一歩も歩けません」
「……生意気な捕虜だ」
そう言いながらも、陛下の顔はとても優しく緩んでいた。
静まり返った戦場に、穏やかな風が吹き抜ける。
三万人の寝息の合唱を背に、私たちはゆっくりと歩き出した。
私のまぶたはもう限界だったけれど、その背中の温もりだけは、夢の中でも忘れないだろうと思った。




