第6話 夢魔の侵入と添い寝の夜
深夜の静寂が、苦しげな唸り声で破られた。
私はパチリと目を覚ました。
枕元の魔導時計は、午前二時を示している。
「丑三つ時」と呼ばれる、魔力が最も不安定になる時間帯だ。
「……う、あぁ……」
隣のカウチから、カイザー陛下の苦悶の声が聞こえる。
せっかく「ひんやりぷるぷる枕・改」を使って快眠していたはずなのに。
彼は脂汗を流し、シーツを強く握りしめていた。
「……空気が、澱んでいますねぇ」
私は鼻をひくつかせた。
いつもの安眠の香りではない。
カビ臭くて、粘着質な不快な気配。
これは、ただの悪夢ではない。
陛下の不眠の原因となっていた呪いの本体、「夢魔」の干渉だ。
「人が気持ちよく寝ている横で、騒々しいですぅ」
私は不機嫌に眉を寄せた。
私の安眠空間を荒らす者は、たとえ魔物だろうと許さない。
害虫駆除の時間だ。
私は陛下のカウチに滑り込み、彼の広い額に自分のおでこをくっつけた。
「お邪魔しますよ」
私は自身の精神を魔力に乗せ、彼の夢の中へとダイブした。
◇
そこは、暗く冷たい灰色の荒野だった。
空にはひび割れた月が浮かび、地面からは無数の棘が生えている。
カイザー陛下の心象風景だ。
彼は荒野の中央で、幼い子供のような姿になって座り込んでいた。
その周囲を、黒い靄のような影が取り囲んでいる。
『眠るな……眠れば死ぬぞ……』
『お前は孤独だ……誰も守ってはくれない……』
影が耳元で囁き続け、彼を精神的に追い詰めている。
これが夢魔の正体か。
人の不安や恐怖を増幅させ、精神力を食らう寄生虫。
「……うるさいですねぇ」
私が声を上げると、影が一斉にこちらを向いた。
『貴様は誰だ……この男の夢に入り込むとは……』
「通りすがりの安眠マニアです」
私は腕まくりをした(夢の中なのでパジャマ姿だ)。
「そこ、私の指定席なんです。どいてくれませんか?」
『愚かな。貴様も悪夢に取り込んでやる!』
影が膨れ上がり、私に襲いかかってくる。
けれど、私は一歩も動かなかった。
夢の世界は、精神力がすべてを決定する場所。
そして「睡眠」というフィールドにおいて、私に勝てる存在などいない。
「『ドリーム・クリーン』」
私が指をパチンと鳴らす。
瞬間、私の体から眩いほどの光が溢れ出した。
それは春の陽射しであり、洗いたてのシーツの白さであり、温かいミルクの輝きだ。
「ギャアアアアッ!?」
影が光に触れた端から、ジュワッと蒸発していく。
ジメジメした悪夢は、絶対的な「心地よさ」の前には存在できない。
「安眠の邪魔です。消えなさい」
私は徹底的に光を照射した。
布団乾燥機のように、夢魔を根こそぎ浄化する。
『バ、バカな……なんだこの、ふざけた暖かさはぁぁ……』
断末魔と共に、黒い靄は綺麗さっぱり消滅した。
後に残ったのは、棘の消えた草原と、満天の星空だけ。
私は震えている小さなカイザーに歩み寄った。
「もう大丈夫ですよ」
私が手を差し出すと、彼は恐る恐る顔を上げた。
その瞳は、現実の彼と同じアメジスト色だった。
「……暖かい」
「ええ。暖かくして寝るのが一番です」
私は彼を抱きしめた。
夢の中の彼は小さくて脆い。
現実では「狂犬」なんて呼ばれて虚勢を張っているけれど、根っこにあるのは、孤独に怯える男の子なのだ。
(……手のかかる人ですねぇ)
私は彼の背中を優しくトントンと叩いた。
「私がいますから。安心して、おやすみなさい」
彼が私の腕の中で力を抜くのを感じながら、私は意識を現実へと浮上させた。
◇
チュン、チュン。
小鳥のさえずりが聞こえる。
私は重たいまぶたを開けた。
「……ん」
目の前には、カイザー陛下の胸板があった。
私たちは狭いカウチの上で、手足を絡ませるようにして抱き合っていた。
いわゆる、朝チュンという状況だ。
「……おはよう、スリーピア」
頭上から、甘く掠れた声が降ってきた。
見上げると、陛下が今までで一番穏やかな顔で私を見つめていた。
目の下の隈は消え、肌艶も良くなっている。
「おはようございますぅ。悪夢は消えましたか?」
「ああ。……光を見た。暖かくて、優しい光だ。そこに貴様がいた気がする」
彼は私の頬に手を添え、愛おしそうに撫でた。
「貴様が助けてくれたんだな」
「夢の話ですよ。私はただ、寝ていただけです」
私がとぼけると、彼は小さく笑った。
そして、私をさらに強く抱きしめる。
「離さんぞ。もう二度と」
その腕の力強さに、私は少しだけドキッとした。
契約とか、利害とか、そういう理屈を超えた熱が、そこにはあった。
(……まあ、抱き枕としては優秀ですし)
私も彼の背中に腕を回し、二度寝を決め込もうとした。
その時だ。
「へ、陛下っ! 大変です!」
バン! と扉が開き、レインさんが転がり込んできた。
相変わらず間の悪い人だ。
私たちは抱き合ったまま、無表情で彼を見た。
「……ノックくらいしろ、レイン。今は大事な朝の余韻の時間だ」
「そ、それどころではありません! 国境からの緊急連絡です!」
レインさんは青ざめた顔で叫んだ。
「ソルネア王国の軍勢が、国境に向けて進軍中です! その数、三万!」
「……なんだと?」
陛下の腕から、急速に体温が引いていく。
代わりに、冷徹な皇帝の覇気が戻ってくる。
「彼らの要求は一つ。『聖女スリーピアを返還せよ』とのことです」
その言葉に、私はあくびを止めた。
聖女?
居眠りばかりの私を「怠惰な女」と呼んで追い出したくせに?
今さら何を言っているのだろう。
「……ふざけた真似を」
カイザー陛下が低い声で唸った。
カウチから立ち上がった彼の背中から、どす黒い殺気が立ち昇る。
「俺の安眠を奪おうなどと……生きて帰れると思うなよ」
完全に「狂犬モード」に戻ってしまった。
でも、その怒りの理由が私の安眠のためだと思うと、少しだけ嬉しかった。
「……戦争、ですかねぇ」
私はマシュマロ一号を抱きしめた。
平和なお昼寝ライフを守るためなら、やることは一つだ。
元婚約者だろうと何だろうと、私の眠りを妨げる者は、夢の中へ送って差し上げましょう。




