第4話 ブラック帝国、お昼寝改革
城内の空気は、張り詰めた弓の弦のようにピリピリと震えていた。
ノクス帝国の居城、黒嶺城。
その廊下を歩くだけで、私の肌は乾燥し、髪はキシキシと痛むような気がした。
「……空気が悪いですぅ」
私はカイザー陛下の腕に引かれながら、不満げに呟いた。
「乾燥肌は安眠の大敵なんですよ。加湿器を置くべきです」
「カシツキ? なんだそれは」
「湿度と平和を保つ魔法道具です」
私が適当な説明をしていると、前方から早足で近づいてくる人影があった。
書類の束を抱え、鬼の形相をした銀縁メガネの男性だ。
皇帝補佐官のレインさんである。
「陛下! ご帰還をお待ちしておりました! 未決裁の書類が山のように溜まっております。北部の魔獣討伐の件、南部の干ばつ対策、それから……」
レインさんは息継ぎもせずに早口でまくし立てる。
その目の下には、見事なクマが鎮座していた。
彼だけではない。
すれ違うメイドも、護衛の騎士も、みんな目が血走っている。
「どいつもこいつも、死にそうな顔をしているな」
カイザー陛下が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「申し訳ありません。陛下が不在の間、城内の『呪い』の影響が強まりまして……職員の平均睡眠時間が二時間を切っております。ミスが多発し、その尻拭いでさらに残業が増えるという悪循環でして」
レインさんが疲労困憊の体で説明する。
なるほど、典型的なブラック職場だ。
上司(皇帝)が不眠でイライラしていると、部下も休まらない。
負の連鎖がここにある。
「ふあぁ……」
私は思わず大きなあくびをした。
レインさんが眉をひそめて私を見る。
「陛下、その……弛緩しきった女性は?」
「俺の安眠装置だ」
「は?」
「以後、彼女の言葉は俺の言葉と思え。最優先で待遇を整えろ」
カイザー陛下はそれだけ告げると、再び歩き出した。
レインさんは呆気にとられていたが、すぐに慌てて追いかけてくる。
私たちは長い廊下を進んだ。
どこへ行っても、怒号と足音が絶えない。
誰かがミスをして怒られ、誰かが過労で倒れかけている。
(……これじゃあ、うるさくてお昼寝もできません)
私はむっとした。
私の安眠のためには、静寂と穏やかな環境が必須だ。
このままでは、私の「スローライフ計画」に支障が出る。
「……仕方ありませんねぇ」
私は抱きしめていたマシュマロ一号をポンポンと叩いた。
「陛下、少し歩くペースを落としてください」
「ん? 疲れたのか」
「いえ、お掃除の時間です」
私は自身の魔力庫を開放した。
普段は自分の体内に留めている「微睡みの魔力」を、薄く広く、廊下全体へと拡散させる。
それは魔法と言うにはあまりに自然な、環境干渉だった。
ラベンダーのような香りと、春の木漏れ日を思わせる温かさ。
それらが透明な波となって、殺伐とした城内へ広がっていく。
最初に反応したのは、通りすがりのメイドだった。
小走りで水を運んでいた彼女の足が、ふと止まる。
「……あれ?」
彼女の強張っていた肩の力が抜け、ふわりと表情が緩んだ。
「なんだか……急に、ポカポカして……」
次に、通路で部下を怒鳴りつけていた騎士隊長。
「貴様! なんでこんなことも……でき……ない、のだ……ふぁ……」
怒声があくびに変わる。
怒鳴られていた部下も、安堵したようにへなへなと座り込んだ。
「……眠い……」
私が通るたびに、ピリピリとした殺気は霧散し、穏やかな午後のような空気に書き換えられていく。
後ろを歩いていたレインさんが、メガネをずり落としかけた。
「な、なんですかこれは!? 城内の魔力濃度が……劇的に安定していく……!?」
「私の魔力は、伝染するんですぅ」
私はのんびりと解説した。
「みんな、気を張りすぎです。一日八時間は寝ないと、良い仕事はできませんよ」
「は、八時間!? そんなに寝たら国が滅びます!」
「寝ないと貴方が滅びますよ、レインさん」
私が指差すと、レインさんはハッとした顔をして、自分が極限状態だったことに気づいたようだ。
彼の膝がガクンと折れる。
「……あ、危ない」
倒れかけたレインさんを、近くにいた騎士が支えた。
二人とも、どこか憑き物が落ちたような顔をしている。
「……おい、スリーピア」
カイザー陛下が、感心したように私を見下ろしていた。
「貴様、ただの怠け者ではなかったのだな」
「私はいつだって本気ですよ。寝ることに」
「いいだろう。その力、存分に使え。この城には休息が必要だ」
陛下はニヤリと笑い、私を抱え上げた。
いわゆるお姫様抱っこだ。
「きゃっ。……歩く手間が省けました」
「行くぞ。俺の執務室へ」
◇
案内されたのは、城の最上階にある広大な執務室だった。
黒を基調としたシックな部屋だが、ここもまた書類の山で埋め尽くされている。
「ここが俺の戦場だ」
陛下は私を降ろすと、執務机に向かった。
山積みの書類を前にしても、今の彼は以前のような殺気を放っていない。
私の魔力のおかげか、あるいは昨晩の熟睡のおかげか。
彼の表情には余裕があった。
「さて、スリーピア。貴様の居場所だが」
「あ、そこがいいです」
私は部屋の日当たりが一番良い、南側の窓辺を指差した。
「あそこに、人が二人寝転がれるくらいの長椅子を置いてください。クッションは五個以上。ブランケットはカシミヤでお願いします」
「……執務室に長椅子だと?」
レインさんが追いついてきて、信じられないという顔をした。
神聖な政務の場に、休憩スペースを作るなど前代未聞らしい。
けれど、カイザー陛下は即断した。
「レイン、すぐに手配しろ。最高級品だ」
「へ、陛下!?」
「俺が仕事をしている間、こいつが視界に入らないと落ち着かん。それに……」
陛下は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……仕事に疲れたら、すぐにこいつを吸えるようにしておきたい」
「吸うって言いました? 私、猫じゃないんですけど」
私の抗議は無視された。
一時間後。
私の要望通りの最高級カウチが搬入された。
ふかふかのベルベット素材で、色は私の瞳と同じ淡いブルー。
私は早速、靴を脱いでカウチにダイブした。
「ん〜……極楽ですぅ」
マシュマロ一号を抱きしめ、窓から差し込む陽光を浴びる。
ペンの走る音。
紙をめくる音。
それらが心地よいBGMとなって、私を夢の世界へ誘う。
「……レイン、北部の件だが」
「はっ、それでしたら……」
カイザー陛下とレインさんが、声を潜めて仕事をしている。
彼らもまた、私が近くで寝息を立てていることで、精神が安定し、驚異的な集中力を発揮しているようだった。
ブラックだった魔王城(帝国城)に、初めて「定時退社」の概念が生まれようとしていた。
私は意識を手放す直前、ふとカイザー陛下と目が合った気がした。
彼は書類から顔を上げ、眠る私を見て、とても優しく微笑んでいた。
「……おやすみ、俺の聖女」
そんな甘い囁きが聞こえたけれど、私はもう夢の中だった。




