第3話 国家認定の抱き枕
鳥のさえずりと朝陽の暖かさが、まどろむ意識を優しく揺り起こした。
私は重たいまぶたを持ち上げる。
いつもの硬いベッドではなく、ゴツゴツとした森の地面の上だ。
けれど、不思議と体は痛くない。
むしろ、大型犬のような温かい何かに包まれていて、とても快適だった。
「……ん、あ?」
目の前に、ドアップの整った顔があった。
昨日、私の膝で気絶するように眠った「狂犬皇帝」カイザー陛下だ。
彼は私の腰に腕を回し、私の肩に頭を埋めて、すーすーと寝息を立てている。
周囲を見渡すと、黒騎士たちが一睡もせずに私たちを見守っていた。
その表情は、幽霊でも見たかのように青ざめ、そして感動に震えている。
「へ、陛下が……朝まで一度も起きずに……」
「奇跡だ……」
騎士たちのひそひそ声が耳に届いたのか、カイザー陛下の長い睫毛が震えた。
ゆっくりと、その瞳が開かれる。
充血の引いた、澄んだアメジスト色の瞳と目が合った。
「……朝、か?」
彼の声は、昨夜の剣呑な響きとは違い、驚くほど掠れていた。
「おはようございますぅ。よく眠れましたか?」
私がのんびりと尋ねると、彼は信じられないものを見るように自分の手を見つめた。
「悪夢を見なかった。痛みもない。……五年ぶりだ。こんなに頭が軽いのは」
彼はガバッと起き上がると、私の両肩を強く掴んだ。
その力強さに、私は少しだけ目が覚めた。
「貴様、何をした」
「何も? ただ膝をお貸ししただけですが」
「嘘をつけ。俺の呪いは、そんな生易しいものではない」
カイザー陛下は私の首筋に顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
まるで獲物を吟味する狼のようだ。
「この匂いだ。貴様のそばにいると、思考が泥のように溶けていく。……貴様、名は?」
「スリーピアです。しがない元公爵令嬢ですが」
「スリーピア。俺の城へ来い」
それは命令であり、懇願だった。
彼の瞳には、渇望が渦巻いている。
一度手に入れた安らぎを、二度と手放したくないという執着。
「俺のそばにいろ。望むものは全てやる。地位も名誉も、宝石もだ」
普通の令嬢なら、皇帝からの求婚まがいの言葉に頬を染めるところだろう。
あるいは、他国の皇帝についても行くリスクに怯えるかもしれない。
けれど、私の判断基準は常に一つだ。
「地位はいりません。宝石も興味ないですぅ」
「なに?」
「私が欲しいのは、最高級のふかふかベッド。肌触りの良いシルクのパジャマ。そして、一日十時間以上の睡眠時間の確保。これらを労働契約書に明記してくれるなら、ついて行きます」
私の提示した条件に、カイザー陛下は呆気にとられた顔をした。
そして次の瞬間、愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「くくっ、ははは! なんだそれは。そんなものでいいのか」
「そんなものとは心外ですねぇ。睡眠は人生の質を決めますから」
「いいだろう。契約成立だ。……ただし」
彼は私の腰をぐっと引き寄せ、逃がさないように抱きしめた。
「俺が眠る時は、必ずそばにいろ。貴様は今日から、俺専用の抱き枕だ」
「……あ、やっぱりそうなります?」
こうして、私はノクス帝国へ行くことになった。
人質でも捕虜でもなく、国家認定の「安眠グッズ」として。
◇
帰りの馬車は、行きとは比べ物にならないほど豪華だった。
衝撃吸収の魔法がかけられた座席は、雲のように柔らかい。
けれど、問題が一つ。
カイザー陛下が片時も私を離そうとしないのだ。
広い座席があるのに、彼は私を隣に座らせ、ずっと私の腕を掴んでいる。
少しでも私が離れようとすると、途端に不機嫌な顔をして唸るのだ。
「……陛下、狭いですぅ」
「我慢しろ。離れると匂いが薄くなる」
彼は私の肩に頭を乗せ、またウトウトし始めている。
どうやら数年分の睡眠不足を取り戻そうとしているらしい。
まあ、彼の体温は高くてポカポカするから、湯たんぽ代わりには悪くないけれど。
数日後。
私たちはノクス帝国の帝都、グラウスに到着した。
窓の外を見ると、黒い石造りの重厚な街並みが広がっている。
だが、街の雰囲気はどこか暗かった。
道行く人々は皆、目の下に隈を作り、足取りも重い。
活気というものがまるで感じられない。
「……なんだか、どんよりしてますねぇ」
「ああ。この国の民もまた、不眠の呪いの影響を受けている」
カイザー陛下が目を覚まし、苦々しげに窓の外を見つめた。
「俺の魔力が国中に影響する。俺が眠れずイラつけば、民もまた安らげない。……俺は、ずっとこの国を蝕んでいたのだ」
自責の念に駆られる彼の横顔は、見ていて痛々しかった。
王の体調が国土にリンクするなんて、迷惑な設定だ。
城門をくぐり、威圧的な黒い城が近づいてくる。
そこからは、街よりもさらに濃い、ギスギスした「寝不足の空気」が漂っていた。
私はマシュマロ一号を抱きしめ直す。
「ふあぁ……。これは、大仕事になりそうですね」
私の安眠ライフを守るためには、まずこの環境(ブラック職場)を改善しなければならない。
私は小さく決意を固めた。
まずは、あの城のピリピリした空気を、お昼寝日和に変えてみせましょう。




