第2話 狂犬皇帝と安眠の膝枕
枝が折れる乾いた音が、森の静寂を引き裂いた。
馬車が急停止し、私は放り出されるような衝撃で目を覚ました。
せっかくマシュマロ一号といい夢を見ていたのに。
私は不満げにまぶたを擦り、幌の隙間から外を覗いた。
「ひ、ひいいっ! 黒い鎧……ノクス帝国の兵だ!」
御者さんの悲鳴が聞こえたかと思うと、彼は馬車を捨てて茂みへ逃げ込んでしまった。
残されたのは、私と愛用の枕だけ。
周囲はいつの間にか、松明を持った黒尽くめの騎士たちに包囲されていた。
殺気立った空気が肌を刺す。
普通なら恐怖で震える場面だろう。
けれど、低血圧の私は、恐怖よりも睡魔と不機嫌が勝っていた。
「……あ、人がいっぱい。こんばんはぁ」
私はふああとあくびをしながら、のっそりと荷台から降りた。
夜風が冷たい。
早く温かい場所で二度寝がしたい。
「貴様、何者だ」
騎士たちの列が割れ、一人の男が歩み出てきた。
その姿を見た瞬間、場が凍りついたように静まる。
漆黒のマントを羽織り、抜き身の剣を提げた長身の男。
整った顔立ちは凶悪に歪み、美しい銀髪は乱れている。
何より恐ろしいのは、その瞳だ。
血走った眼球の下には、深淵のような隈が刻まれている。
噂の「狂犬皇帝」、カイザー・ヴォルフ・ノクスだ。
「……うるさい。耳障りだ。虫が……」
彼はうわ言のように呟きながら、私を睨みつけた。
殺気というより、もはや狂気だ。
不眠の限界を超え、精神が摩耗しきっているのが見て取れる。
(うわぁ……お肌ボロボロですねぇ)
私は職業病とも言える視点で、彼の健康状態を分析した。
あんな状態で剣を振り回すなんて、労働基準法違反もいいところだ。
「消えろ。俺の視界から、すべての音と光を消せ!」
カイザー皇帝が吠え、地面を蹴った。
速い。
瞬きする間に、切っ先が私の喉元へと迫る。
周囲の騎士たちが「陛下、お待ちを!」と叫ぶが遅い。
私は逃げるのを諦めた。
というより、動くのが面倒だった。
私は枕を抱きしめたまま、小さく息を吐く。
「……うるさいのは、そっちですぅ」
私はとっさに、独自開発した生活魔法「強制入眠」の構成を練った。
相手の意識を強制的にシャットダウンさせる、ある意味で最強の攻撃魔法だ。
けれど、魔法を発動するまでもなかった。
私の周りには常時、高濃度の「安眠の魔力」が漂っている。
それは日向干しした布団の匂いや、ホットミルクの湯気に似た、精神を鎮める波動だ。
剣を振り上げた皇帝が、私の目前でピタリと止まった。
「……っ?」
彼の鼻がひくりと動く。
血走っていた瞳が、驚きに見開かれた。
「なんだ……この、匂いは……」
彼の剣先が震え、カランと音を立てて地面に落ちた。
張り詰めていた糸が切れたように、彼の巨体がふらりと傾く。
「あ」
ドサッ。
重たい音がして、私の太ももに衝撃が走った。
カイザー皇帝が、地面に座り込んだ私の膝の上に倒れ込んできたのだ。
騎士たちが一斉にざわめく。
剣を抜こうとする者もいた。
「き、貴様! 陛下に何を……!」
「しーっ。静かにしてください」
私は人差し指を口元に当て、騎士たちを制した。
そして、膝の上の男を見下ろす。
あんなに殺気立っていた猛獣が、今は借りてきた猫のように丸くなっている。
彼の呼吸は深く、規則正しいリズムを刻み始めていた。
「……すぅ……すぅ……」
寝てる。
しかも、爆睡だ。
「……ふふ、よっぽど眠かったんですねぇ」
私は無意識に、彼のごわごわした銀髪を撫でていた。
長年蓄積された疲労と呪いが、私の魔力に触れて一時的に中和されたのだろう。
私の膝枕と、マシュマロ一号の背もたれ。
即席にしては、悪くない寝床のはずだ。
「……いいですよ。特別サービスです」
温かい体温が伝わってくる。
湯たんぽ代わりにはちょうどいいかもしれない。
森の冷気の中、恐れられる暴君と追放された悪役令嬢は、奇妙な静寂に包まれていた。
周囲の騎士たちは、剣を構えたまま立ち尽くしている。
彼らの主君がこんなに安らかな寝顔を見せるのは、きっと数年ぶりのことだったから。
私は再び襲ってきた睡魔に身を委ね、皇帝の頭に自分の頭を預けた。
「おやすみなさい……」
二人の寝息だけが、森に優しく響いた。




