通報者ポイントで暮らしてみた結果―通報ランキング一位になった男の末路
最初に「通知」が来たのは、年度末の忙しい日に限って残業を言い渡された、あの夜だった。
デスクの上に置きっぱなしのスマホが、ぶるりと震えた。
画面には見慣れないアイコンが浮かんでいる。青い盾のマークと、「通報者ポイント・公式アプリ」という文字。
会社のメーリングリストで話題になっていた新制度だと、佐久間はすぐに思い出した。
治安向上のため、怪しい人物や不審な行動を専用アプリから通報すると「通報者ポイント」が加算される。
ポイントが貯まると、住民税が軽くなり、公共料金や交通費も割引される。子どもの学費の補助だって増える。
政府は「善良な市民の協力に感謝します」と笑顔で会見していた。
その動画を、昼休みに同僚が見せてきたのだ。
「これ、使わない手ないよな。コンビニのポイントカードよりお得だってさ」
あのとき佐久間は、曖昧に笑ってごまかした。
やりすぎじゃないか、と心のどこかで思っていたからだ。
だが今、残業で静まり返ったオフィスで、彼は通知をタップしていた。
画面には、丁寧な説明つきのチュートリアルが流れ、最後に大きくこう書かれている。
「あなたの“気づき”が、街を守ります。」
下には、「同意してはじめる」のボタン。
佐久間は、ため息をつきながら、それを押した。
◇
翌朝。
通勤電車の中で、彼はアプリを起動したまま、つり革につかまっていた。
満員電車の中ほどに、フードを深くかぶった男がひとり、うつむいて立っている。
腕には大きな紙袋。紙袋の口はゆるく、黒い何かがちらりと覗いた。
その姿を見たとき、アプリの画面下部に、小さなメッセージが表示された。
〈周囲に不審な人物はいますか?〉
〈通報は匿名で行われます〉
佐久間は、思わず視線をそらした。
不審者、とまでは言えない。ただ疲れているだけかもしれない。
だが、彼の脳裏にはローンのことがよぎる。
マイホームの三十五年ローン。高校生になった娘の学費。老いた母の介護施設の費用。
給料はここ数年、上がっていない。
残業代も法律の改正で抑えられた。ボーナスは、あるようなないような額だ。
通報者ポイントの説明ページを、彼は再び読み返す。
《月間百ポイント達成で、翌年度の住民税一割減免》
《累計千ポイントで、教育・医療費の優遇制度対象》
《特に重大な犯罪を未然に防いだと認定された場合、特別ボーナスも》
指先が、汗ばむ。
電車が揺れた拍子に、前の男の紙袋が一瞬、傾いた。中から金属の光が見えたような気がして、心臓が跳ねる。
佐久間は、言い聞かせるように心の中でつぶやいた。
もし本当に危険だったら。
もし自分が通報しなかったせいで、何かあったら。
善良な市民なら、どうするべきだ。
親指が、画面の「通報する」のボタンに触れた。
簡単なフォームが開く。
「通報対象の特徴」「場所」「状況」。
必要項目を埋めて送信ボタンを押すまで、三十秒もかからない。
送信が完了すると、画面に小さく花火のようなアニメーションが弾けた。
《通報ありがとうございます。審査後、ポイントを付与いたします》
電車を降りて会社に着くまで、罪悪感が喉のあたりに引っかかっていた。
だが、昼休みにアプリを開くと、通知が来ていた。
《本日の通報について、不審人物を保護・事情聴取いたしました》
《通報者ポイント:+30》
数字を見た瞬間、罪悪感は、不思議なくらい薄れていった。
◇
「なあ、最近ニュースでやってるろ。通報者ポイントで事件防いだ人の特集」
同僚の山崎が、缶コーヒーを片手に言った。
休憩室のテレビでは、「地域のヒーローたち」というテロップが踊っている。
画面の中で、主婦や学生がインタビューに答えていた。
怪しい物音、夜中の路上の争い、不審な書き込み。
彼らはアプリから通報し、警察が駆けつけ、事件を未然に防いだという。
「いやあ、税金も安くなるし、俺も何か見つけたいわ」
山崎は冗談めかして笑った。
佐久間は、曖昧に笑い返しながら、自分のスマホをポケットの中で握りしめた。
アプリの「マイページ」を開くと、自分の累計ポイントが表示される。
まだ三十ポイント。
ランキングにすると、同じ市内では下から数えた方が早い。
画面の上には、「市内トップ通報者」の顔写真が並んでいる。
誰もが笑顔で、インタビュー記事のリンクがついていた。
その日の夜、佐久間は家で、妻の真紀と娘の杏奈にアプリの話をした。
「そんなの、怖くない?」
高校二年の杏奈は、眉をひそめた。
「怖いって、何がだよ。危ない人を見つけて通報するだけだ」
「“危ない人”って、誰が決めるの? ちょっと変な服着てるとか、夜道を歩いてるだけで通報されたらたまったもんじゃない」
「審査するのは警察だから、変な通報は却下されるだろ」
真紀は、台所から顔を出した。
「ポイントって、そんなに大きいの?」
「百ポイントで来年から住民税一割減。千ポイントで、教育費とかだって優遇受けられる」
「千ポイント……」
真紀は、手を止めて小さくため息をついた。
「……そりゃ、助かるわね」
杏奈は不服そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
その夜、佐久間は眠る前にアプリのニュース欄を眺めた。
「通報者ポイントで子どもの大学進学を実現」といった美談が並んでいる。
そこに登場する人たちは、皆同じことを言っていた。
「最初はためらいましたが、街のためだと信じました」
「普通の主婦にもできることがあると知りました」
自分だって、少し勇気を出したのだ。
そう思うと、心の中にあった小さなひっかかりが、少しだけ軽くなった。
◇
それからしばらく、佐久間は通報をしなかった。
会社と家の往復。休日は家族でショッピングモールに行くか、寝るか。
不審者らしい不審者など、そうそう目につかなかった。
アプリのアイコンは、ホーム画面の隅に押しやられていった。
ところが、春のボーナスが予想以上に少なかったその日、事情は変わる。
「これじゃ、来年から杏奈の予備校、どうするのよ」
通帳を見つめながら、真紀が苦い声を出した。
「俺だって、好きで減らしてるわけじゃない」
口から出た言葉は、我ながら情けなかった。
会社の業績がどうとか、為替がどうとか、そんな言い訳は家計簿には関係ない。
その夜、食卓はいつもより静かだった。
テレビの音だけが、ぽつぽつと部屋を満たしている。
〈来年度から、通報者ポイント優遇枠の拡大が決定しました〉
ニュースキャスターの声が、やけに耳に残った。
甘いものを控えろと言われている母のために買ったプリンも、手つかずのままだ。
佐久間は、黙ってスマホを手に取った。
久しぶりにアプリを開くと、ログインボーナスと称して、わずか五ポイントが付与された。
《本日の「街の気づき」を教えてください》
アンケート欄には、「ごみの出し方」「騒音」「子どもの深夜徘徊」など、気づいたことを選択する項目が並んでいる。
ふと、隣の部屋の窓の外で、ガタン、と音がした。
隣家のベランダ。
大学生の一人暮らしらしい青年が、夜中に洗濯物を干している。
その隣の、共用廊下には、分別されていないらしいゴミ袋が置きっぱなしになっていた。
以前から気になっていた光景だ。
アプリの項目を見直すと、「ごみ出しマナー違反」「夜間の不審な物音」というチェックボックスが、さりげなく並んでいる。
これくらいなら、いいだろう。
誰も傷つかない。せいぜい、注意されるだけだ。
佐久間は、「軽度の生活マナー違反」として、隣人の情報を通報した。
通報フォームには、こう書いてある。
《警察からの指導、または自治体からの注意喚起が行われた場合、ポイントが付与されます》
翌日、エレベーターで隣人の青年と顔を合わせた。
彼は少し眠そうな目で会釈しただけで、特に変わった様子はない。
少し後ろめたさを感じながら出勤すると、昼休みに通知が来た。
《地域の清潔な環境づくりにご協力ありがとうございます》
《通報者ポイント:+10》
十ポイント。
その数字は、思いのほか重みを持って感じられた。
◇
慣れてくるのは、早かった。
ベランダでの喫煙。
夜中の騒音。
子どもを怒鳴る親の声。
違法駐輪。
歩きたばこ。
マンションの掲示板に貼られた、無許可らしいチラシ。
佐久間は、見つけるたびにアプリを起動した。
通報フォームには、「通報レベル」の選択肢もある。
軽微なマナー違反、要注意行動、犯罪の疑い、高度な危険。
軽微なものでも、何件か重なれば、そこそこのポイントになる。
それに、画面にはいつも、「あなたの通報が街を守っています」と称賛の言葉が表示される。
週に一度届くメールマガジンには、「今週の模範通報例」が紹介され、自分の似た通報が載っていることもあった。
通報は、完全に匿名。
相手に自分の名前が知られることはない。
だからこそ、アプリは広く普及した。
気づけば、マンションの住民たちは、互いに距離を置くようになっていた。
エレベーターで会っても、会釈だけ。雑談は減り、笑い声も少なくなった。
誰もが、誰かのスマホの向こう側を、少しだけ恐れていた。
その一方で、佐久間の家庭には、ほんのわずかな余裕が生まれていた。
「来年の住民税、ほんとに一割減るんだって」
真紀は、通知画面を見て驚いたように言った。
「すごいわね、あんた。地道に貯めてたんだ」
「通報するの、そんなに悪いことじゃないだろ。ちゃんと違反してるやつらだけだ」
「まあ……助かるわよ。パート増やさなくて済むかもしれないし」
杏奈は黙っていたが、ふと視線がスマホに落ちる。
彼女の学校でも、通報者ポイントの話題は出ていたらしい。
「うちのクラスの子がさ、先生を通報したとか言ってた」
「先生?」
「授業中にスマホ見てたって。ほんとは出席アプリ操作してただけなのに。
結局、誤解だったって認定されたけど、先生、しばらくすんごいピリピリしてた」
「誤報ならポイントは入らないんだろ」
「でも、通報された方は消えないじゃん、その記録」
杏奈は、茶碗を置いて立ち上がった。
「なんか、全部監視カメラの中にいるみたい。やだな」
佐久間は、返す言葉を見つけられなかった。
◇
夏前、会社の業績悪化で、早期退職の募集が始まった。
佐久間の部署も例外ではない。
会議室に呼ばれ、人事から淡々と説明を受けた。
「もちろん、強制ではありません。ただ、今後の組織体制を考えれば……」
暗に、「辞めてくれた方が助かる」と言っているようなものだった。
帰り道の電車の窓に映る自分の顔は、疲れ切って見えた。
家では、真紀が夕飯の支度をしながら、さりげなく聞いてきた。
「どうだったの? 今日の説明」
「……考えてくれってさ。転職支援だのなんだの、聞こえはいいけど」
「え、でも、杏奈の受験もあるし、お義母さんの施設代だって……」
「分かってるよ」
分かってはいる。
だが、分かっているからこそ、目の前が暗くなった。
夜、ふと目が覚めた。
喉が渇いて、キッチンへ水を飲みに行く。
カーテンの隙間から、隣のマンションの窓が見えた。
灯りのついた部屋で、若い夫婦らしき二人が、何かに笑っている。
その光景に、理由もなく苛立ちが湧いた。
彼らのベランダには、規定外の自転車が置かれている。
前から気になっていたが、見ないふりをしてきた。
スマホを手に取る。
アプリを開き、カメラを向ける。
通報フォームには、「違法駐輪」「消防法に抵触する可能性」といった選択肢が並んでいる。
指が、自然に動いた。
送信ボタンを押すと、胸の中のもやもやが、ほんの少しだけ薄まった気がした。
◇
やがて、通報は彼の「日課」になった。
朝の通勤時には、駅前の路上喫煙者。
帰り道には、居酒屋の前で騒ぐ若者たち。
休日には、ショッピングモールの駐車場でルールを守らない車。
彼は、自分の行為を「街の清掃」だと考えた。
誰も片付けようとしないから、溜まっていくゴミ。
それを拾い上げて、指定の場所に捨てているだけだ。
通報件数が増えるにつれ、ポイントも加速度的に増えていった。
アプリのランキングには、自分の名前が表示される。
最初は下位だった順位が、少しずつ上がっていくのを見るのは、妙に快感だった。
ある日、市の広報誌から取材依頼のメールが来た。
《通報者ポイント制度に積極的にご協力いただいている「模範市民」として、インタビュー記事にご登場いただけないでしょうか》
佐久間は、少しだけ迷ってから、断った。
名前と顔を出すのは、さすがに気が引けた。
だが、「模範市民」という言葉は、胸に残った。
自分は、正しいことをしている。
だから、報われているのだ。
そう思い込むには、十分だった。
◇
通報の対象は、少しずつ広がっていった。
マンションの管理組合の総会。
役員の一人が、予算の使い道について曖昧な説明をした。
その夜、「不正の疑い」として通報した。
後日、管理会社から説明会が開かれ、支出の一部に不備が見つかったと報告があった。
佐久間のポイントは、その日だけで五十も増えた。
会社の会議。
上司が、資料の数字をごまかしているように感じた。
「経理上の不正の可能性」として通報した。
後日、内部監査が入り、部署は騒然となった。
誰が通報したのか、同僚たちは互いに疑い合った。
佐久間は、何も知らないふりをした。
そんな日々が続くと、普通の人間関係は、自然と痩せていった。
飲み会は減り、雑談も減った。
誰かの愚痴や弱音を聞いても、それを別の意味で捉える自分がいることに気づき、佐久間は自分自身を少しだけ嫌悪した。
だが、通帳の数字を見ると、その嫌悪はすぐに薄れた。
住民税は、実際に減っている。
公共料金の明細にも、「通報者割引」の文字が踊る。
杏奈の予備校代も、なんとか工面できた。
「すごいね、お父さん」
その一言で、彼はまた、スマホを強く握りしめた。
◇
秋の終わり。
アプリの仕様が大きく変わった。
アップデートのお知らせには、こう書かれていた。
《通報者ポイントの信頼性向上のため、不正取得防止システムを導入しました》
《AIによるパターン分析により、不自然な通報傾向を検知した場合、審査対象となります》
《悪意ある通報や、ポイント目的とみなされる行為には、減点および法的措置が取られる場合があります》
佐久間は、その文面を何度も読み返した。
不自然な通報。
ポイント目的。
自分は、大丈夫だろうか。
少なくとも、嘘は書いていない。
実際に見たこと、聞いたことだけを通報している。
軽微なものも多いが、すべて「街のため」だと信じている――信じたいと思っている。
その夜、真紀がニュースを見ながら言った。
「なんかね、ポイント欲しさに嫌がらせ通報する人がいるんだって。
隣人の洗濯物の出し方とか、子どもの泣き声とか、まあ、色々」
「そんなやつらと一緒にされたくないな」
思わず、本音が口をついた。
真紀は「そうね」と曖昧に笑った。
杏奈は、その会話を横目で聞きながら、スマホをいじっていた。
「何見てるんだ?」
「SNS。通報者ポイントの愚痴アカばっかり。
“通報された”経験談のタグ、すっごい伸びてるよ」
彼女は、画面を佐久間に見せた。
そこには、「ゴミ出しの曜日を一回間違えただけで警察来た」とか「夜泣き通報されて育児ノイローゼ」とか、そんな書き込みが並んでいる。
「……全部が全部、正しい通報じゃないんだろうな」
「そうだよ。
“怪しい”って思ったら、とりあえず通報しろって空気があるもん。
間違ってても、“街のため”って言えば許されるみたいにさ」
杏奈の声には、うっすらとした怒りが混ざっていた。
「お父さんは、どこまでが“街のため”だと思ってるの?」
唐突な問いに、佐久間は言葉に詰まった。
「……少なくとも、犯罪はダメだ」
「犯罪って、どこから?」
それ以上の会話は、続かなかった。
◇
それから数週間後のことだった。
日曜の昼下がり。
珍しく家族三人が揃っている時間に、玄関のチャイムが鳴った。
インターホンのモニターに映ったのは、制服姿の警察官二人と、スーツ姿の男が一人。
「佐久間浩一さんのお宅でしょうか。
通報者ポイント制度に関するご協力のお願いで参りました」
穏やかな口調だったが、その目は笑っていなかった。
リビングに通すと、三人はきちんと名刺を出した。
県警の生活安全課と、通報者ポイント運営事務局だという。
「このたびは、日頃のご協力に感謝申し上げます」
スーツの男が、丁寧に頭を下げる。
「いえ……そんな、大したことは」
「いえいえ。累計ポイント、市内でも上位ですよ」
佐久間は、少し誇らしい気持ちになりかけた。
しかし、次の言葉が、その感情を一瞬で凍らせた。
「同時に、通報ポイントの“不自然な増加”が見られるアカウントとして、モニタリング対象にもなっておりまして」
リビングの空気が、固まった。
「不自然、とは……?」
「もちろん、すべてが悪質だというわけではありません。
ただ、短期間に特定地域での通報が集中しており、かつ軽微な案件が異常に多い。
AIの判定では、“ポイント目的の通報である可能性が高い”と出ています」
佐久間は、喉が乾くのを感じた。
「私は、実際に見たことを、そのまま……」
「ええ、その点は否定しておりません。
ただ、例えばこちら――」
スーツの男はタブレットを取り出し、画面を見せた。
「この通報。“ベランダ喫煙”“夜間洗濯”“ゴミ出しの曜日違反”……同じ隣人について、半年で十件以上の通報がされていますね」
「それは、その……前から気になっていて」
「その方の生活状況は、理解されていますか?」
「生活状況?」
「シングルマザーで、昼夜二つの仕事を掛け持ちしている方です。
夜間の洗濯は、やむを得ない事情もある。
こちらで指導を行いましたが、あなたからの通報があるたびに、“どこかの誰かに見張られている”と強い不安を訴えています」
真紀が、息を飲む音がした。
「そんな……私は、そこまで」
「もちろん、あなたお一人だけの問題ではありません。
しかし、制度を継続するには、“通報の質”も問われる時代になりました」
警察官の一人が、柔らかい声で言った。
「今日は、通報の仕方について、ご説明とお願いにあがりました。
今後は、緊急性や危険性の高い事案に絞っていただきたい。
マナー違反レベルのものは、自治体の相談窓口などを利用していただいた方が」
「それって……ポイントは、どうなるんですか」
思わず口をついて出た言葉に、佐久間自身が驚いた。
警察官の目が、一瞬だけ冷たく光る。
「現時点では、累計ポイントの取り消しは行いません。
ただし今後、不自然な通報が続くようであれば、減点およびアカウント停止、最悪の場合は“虚偽通報”として法的措置も検討されます」
リビングの空気が、さらに重くなった。
「ちょっと、待ってください。
私は、嘘なんて――」
「虚偽かどうかは、最終的に我々が判断します」
スーツの男が、淡々と言った。
「なお、本日は“任意の聞き取り”という形ですので、ご協力いただける範囲で結構です。
通報内容や、動機について、少しお話を――」
その後、二時間近く、佐久間はタブレットの画面を前に、質問に答え続けた。
どこでその人物を見たのか。
どんな印象だったか。
通報する前に、声をかけたり、注意したりはしなかったのか。
通報によって、自分がどんなメリットを受けたか、意識していたか。
質問は、どれも穏やかな言葉で、しかし逃げ場なく続いた。
最後に、スーツの男がタブレットを操作しながら言った。
「本日の聞き取り内容と、過去の通報履歴をもとに、後日あらためて審査結果をお送りします。
それまでは、新規の通報は控えていただくことをお勧めします」
玄関まで見送りに出ると、廊下の端で杏奈が立ち聞きしていた。
彼女は目をそらし、部屋に走って戻っていった。
◇
その夜、夕食の席は、静かだった。
味噌汁の湯気がゆらゆらと揺れているのを、佐久間はぼんやりと眺めていた。
「……そんなに通報してたの?」
真紀が、小さな声で聞いた。
「街のためだと思って」
「街のため、ね」
その言い方には、わずかな棘があった。
「お父さん」
杏奈が、箸を置いた。
「もしさ。
もし、うちが誰かに通報されてたら、どう思う?」
「うちが? 何を通報されるんだ」
「例えば、おばあちゃんの夜中のうなされ声とか。
私の受験で、夜遅くまで電気ついてることとか。
お母さんが安い外国産の肉をまとめ買いして、冷凍庫パンパンにしてるのも、なんか“怪しい買いだめ”って思われるかもよ」
「そんなの、通報されるわけないだろ」
「“怪しいと思ったら通報を”って、いつもアプリに書いてあるじゃん」
杏奈の目は、真っ直ぐだった。
「お父さんの“怪しい”と、他の誰かの“怪しい”が違うみたいに、誰かの“怪しい”と、私たちの“いつもの生活”も違うかもしれない」
佐久間は、言葉を失った。
自分は、被害者にはならない側のつもりで、いたのだ。
通報する側。
評価する側。
“善良な市民”側。
しかし、ラインはどこにも引かれていなかった。
ひとつひとつの主観の中にだけ、ぼんやりと存在している。
その夜、佐久間はなかなか眠れなかった。
アプリを開くと、「審査中」の表示が出ている。
累計ポイントの数字の横には、小さく注意マークがついていた。
《現在、お客様のアカウントは精査中です》
《審査完了まで、一部サービスが制限されます》
指先が震え、スマホを布団の上に投げ出した。
◇
数日後。
会社のロッカールームで、またもや人事から呼び出しがかかった。
早期退職者の枠が埋まらなかったため、今度は「指名」だという。
「申し訳ないが、君の年次と職種だと、ここが潮時だろう」
上司は、目を合わせようとしなかった。
転職支援だのなんだのという説明は、前回とほとんど同じだった。
帰り道、佐久間は自分の足音だけを聞きながら歩いた。
アプリを開くと、「審査中」の表示はまだ消えていない。
ポイントも、優遇の一覧も、すべてグレーアウトされている。
唯一押せるボタンは、「お問い合わせ」の欄だけだった。
何か書こうとしても、言葉が浮かばなかった。
◇
それから一週間後。
日曜の夕方、郵便受けに一通の封書が届いていた。
差出人は、「通報者ポイント運営事務局」。
リビングで家族三人が揃ったところで、佐久間は封を切った。
中には、数枚の書類と、QRコードの印刷された紙が同封されている。
一枚目には、こう書いてあった。
《通報ポイント不正取得疑義に関する審査結果のお知らせ》
喉が鳴るのを、自分でもはっきりと聞いた。
「お父さん……」
杏奈の声が震えている。
佐久間は、続きを声に出して読んだ。
「……“慎重な審査の結果、お客様のアカウントにおいて、ポイント目的と推認される通報が一定数確認されました”」
真紀が、息を呑んだ。
「“よって、累計ポイントの一部を無効とし、アカウントを停止させていただきます。
なお、詳細な内訳および異議申し立て方法につきましては、下記QRコードから専用ページにアクセスし、ご確認ください”……」
最後まで読むと、力が抜けて椅子にもたれかかった。
「停止って……どうなるの?」
「優遇措置は全部、なくなるってことだろ」
「来年の税金とか、杏奈の……」
「分かってる!」
思わず、声が大きくなった。
杏奈は、びくりと肩を震わせ、それ以上何も言わなかった。
重い沈黙のあと、真紀が、そっと口を開いた。
「……専用ページ、見てみなよ。内訳、っていうの」
佐久間は、QRコードにスマホをかざした。
ブラウザが開き、「通報者ポイント・審査結果詳細」というページが表示される。
ログインIDとパスワードを入力すると、画面は切り替わった。
そこには、表形式で過去一年分の通報履歴が並んでいる。
日付、内容、付与されたポイント、そして右端には小さく「判断」の欄。
「適正」「軽微」「グレー」「不適正」。
スクロールしていくうちに、「グレー」と「不適正」の行が、じわじわと増えていくのが分かった。
胸の奥が、冷たくなった。
ページの一番下に、「審査の経緯について」というリンクがあった。
そこをタップすると、文章が表示された。
《本件審査にあたり、第三者からの通報情報も参考にしております》
その一文を読んだ瞬間、佐久間は顔を上げた。
「第三者からの……通報?」
真紀と杏奈が、何とも言えない表情で視線をそらした。
「……え?」
佐久間は、声を失った。
「ちょっと待て。
誰かが、俺を通報したってことか?」
誰も、答えない。
「お前らは、何か知ってるのか」
沈黙の中で、壁の時計の秒針だけがカチカチと響く。
杏奈が、ゆっくりと口を開いた。
「……お父さん。
この前、警察の人が来たあと、私、学校で配られたプリント見直したんだ」
「プリント?」
「“通報者ポイント制度に関する注意喚起”ってやつ。
“ポイント目的の通報を見つけた場合も、通報対象となります”って、ちゃんと書いてあった」
佐久間の手から、スマホが滑り落ちそうになった。
「だからって……お前、まさか」
「最初は、私一人だったよ。
学校から帰るのが遅くなって、家の前の電灯の下で、お父さんがスマホ持ってじっと誰かを見てるの、何回も見た。
私も、いつか通報されるんじゃないかって、ほんとに怖くて」
真紀が、小さくうなずいた。
「私も、一回だけ。
夜中にトイレに起きたら、あんた、ベランダから近所を写真撮ってたでしょう。
“そんなに通報しなきゃ、うちを守れないの?”って、どうしても思っちゃって」
「俺は、お前たちを守るために――」
「でも、その“守り方”が怖かったの」
杏奈の目には、涙が浮かんでいた。
「お父さんは、街を守るために、誰でも通報できる人になってた。
それって、たぶんもう、“家族”の顔じゃないんだよ」
言葉の意味が、胸に突き刺さるのを感じた。
ページの続きには、こう書かれていた。
《本件について複数の通報が寄せられたため、優先的に審査を行いました》
《通報者:家族、近隣住民 等》
佐久間は、震える指で、ページ上部の「トップに戻る」をタップした。
最初の画面には、大きく、自分の名前とアカウントステータスが表示されている。
《アカウント名:佐久間浩一》
《ステータス:停止中(通報ポイント不正取得疑義)》
その下に、小さなリンクがあった。
〈本件に関する通報者を確認する〉
躊躇いながらタップすると、新しい画面が開いた。
《本件に関する通報者(敬称略)》
その下に、箇条書きで名前が並ぶ。
〈通報者1:佐久間真紀〉
〈通報者2:佐久間杏奈〉
〈通報者3:佐久間幸子〉
最後の名前は、施設にいる母のものだった。
「おばあちゃんまで……?」
驚く佐久間に、真紀が小さく答えた。
「施設の職員さんが、制度の説明したときにね。
あの人、“うちの息子、最近通報ばっかりしてるみたいで”って、笑いながら話したらしいの。
そしたら、“それも立派な通報対象ですよ”って、教えられたんだって」
画面の一番下には、小さく注釈が付いていた。
《※本ページは、通報制度の透明性向上のため、ご本人のみに開示されています》
佐久間は、スマホを見つめたまま、動けなくなった。
自分が今まで何百回となく見てきた、「通報しました」「通報されました」の画面。
いつも画面の向こう側にいた“誰か”の場所に、今、自分の名前が貼り付いている。
そして、その通報者欄には、見慣れた名字がずらりと並んでいた。
画面の明かりが、静かなリビングを白く照らしていた。
その光の中で、佐久間は、初めて気づいた。
自分が守ってきたつもりのものが、いつの間にか指先から滑り落ちていたことに。
そして、それを拾い上げるために、家族が選んだ方法が、他ならぬ「通報」だったことに。
スマホの画面には、最後に短いメッセージが表示されていた。
《通報者ポイント制度をご利用いただき、ありがとうございました。》
その文面は、いつも通り丁寧で、どこまでも事務的だった。




