最終話:料理は言葉よりも雄弁に
リヒャルトが去った後、『銀の厨房』には重苦しい沈黙が支配していた。床に散らばったポトフの残骸と砕け散った皿の破片が、先ほどまでの嵐のような出来事を物語っていた。
やがて、沈黙を破ったのはシルヴィアだった。
「あっ……片付けないと」
その声は小さく、震えを含んでいた。感情を必死に抑えようとしているかのような、かすれた響き。彼女はそう言うと、厨房の隅からほうきと塵取りを取り出し、無心に床の破片を集め始めた。
金色の髪が彼女の顔を隠し、表情は読み取れない。ただ、彼女の動きは少し早く、そしてぎこちなかった。
「……ああ」
エルベルトも短く応え、布巾を手に取り、床に広がったスープを拭き始める。二人はただ黙々と手を動かし、先ほどの騒動の痕跡を消そうとしていた。
言葉を交わすことなく、ただ黙々と。
シルヴィアは丁寧に陶器の破片を拾い集め、エルベルトは丁寧に床を拭き取る。何かを語ることで、先ほどの出来事がより現実味を帯びることを恐れているかのように、二人は沈黙を守った。
時折、二人の手が同じ破片に伸びると、お互いに一瞬目を合わせ、すぐに視線をそらす。そんな気まずい空気が店内に漂っていた。
窓の外では、まだ日が高く、普段なら活気に満ちているはずの時間帯。
しかし今日は、店内の空気があまりにも張り詰めていて、時間さえも止まったように感じられた。
──片付けが半分ほど終わった頃だろうか。
エルベルトが汚れた布巾を水で洗っていると、不意にシルヴィアの肩が小刻みに震え始めた。初めは彼女が泣いているのかと思ったが、よく聞くと、それは笑い声だった。
「……ふふっ」
彼女はくすくすと笑い始め、やがてその声は大きくなっていった。
「『シルヴィアの婚約者は、俺だ!』……ふふ、あはははっ!」
シルヴィアは先ほどのエルベルトの言葉を真似て、さらに大きく笑い出した。その笑い声は張り詰めた空気を切り裂き、店内に新鮮な風を運んできたようだった。
彼女の笑顔を見て、エルベルトの表情も自然と和らいだ。彼の口元が微かに緩み、眉間の皺が消える。
「す、すまない。成り行きで……とんでもない嘘を……。それに、貴族を殴ってしまった」
エルベルトは恥ずかしそうに言った。その表情には後悔と照れが入り混じっていた。
「それなら多分大丈夫よ。気にしないで」
シルヴィアは笑いを抑えながら答えた。
「婚約者に逃げられ、あまつさえ平民に殴られて逃げ帰ったなんて、彼のプライドが許さないもの。誰にも言わないわ、絶対に」
彼女は楽しそうに言った。しかし、エルベルトの表情は依然として真剣だった。
「それに……あんたにも、迷惑をかけてしまった……」
その言葉を聞いて、シルヴィアは悪戯っぽく微笑んだ。彼女は塵取りを床に置くと、エルベルトの前に立ち、言葉を遮った。
「あら? さっきまで私のこと『シルヴィア』って呼んでくれたのに、もう呼んでくれないのね?」
その不意打ちに、エルベルトは一瞬で顔を真っ赤に染め、明らかに動揺した。
「あ、あれは……勢いで! だいたい、あんただって俺のこと『キミ』と呼ぶだろう」
彼は言い訳じみた言葉を返し、顔を背けた。
「ふふ、そうね」
シルヴィアはクスリと笑うと、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ、リヒャルトが来る前に、何か言いかけていなかったかしら?」
その質問に、エルベルトの表情が一転して真剣になった。
「ああ……。王宮の厨房を辞めてきた。今日はそれを伝えにきたんだ」
その言葉に、シルヴィアは目を丸くした。
「えっ?」
シルヴィアの驚いた表情を見て、エルベルトはゆっくりと続けた。彼の声は静かだが、一語一語に重みがあった。
「王宮の厨房長からは、『もったいない才能だ』と引き止められた。実際、俺自身も王宮での仕事に誇りを持っていた。だが……」
エルベルトは一瞬言葉を切り、窓の外を見つめた。
「いつしか『誰のために料理を作っているのか』がわからなくなっていた。顔も見えない相手に、ただ『完璧な料理』を作ることだけが目的になっていた」
彼の目には、遠い記憶を辿るような光が宿っていた。
「そんな時に、あんたの料理に出会った」
彼の視線が再びシルヴィアに戻る。
「はじめは苛立った。技術はあまりにも拙く、見るに耐えなかった。だが……」
エルベルトの声が柔らかくなる。
「あんたの料理は、いつも誰かのために作られていた。腹を空かせた子供や、目的を見失った料理人に……。その姿を見て思い出したんだ。俺が、何で料理人になんてなったのかを」
彼はそう言うと、突然深く頭を下げた。その仕草はこれまでの彼からは想像もできないほど、謙虚で真摯なものだった。
「あんたに、自分が料理を続ける意味を教えてもらった。……感謝してる」
それは、彼が初めて見せる、飾り気のない素直な感情だった。いつもの皮肉や厳しさは影も形もなく、そこにあるのは純粋な感謝だけだった。
シルヴィアはその言葉に、一瞬言葉を失った。彼女の目には、喜びと驚きと、そしてわずかな恥じらいが浮かんでいた。
「私の方こそ、お礼を言わないと。……私もキミに出会って、気づいたことがあるの」
彼女の声は、風が枯れ葉を揺らすように、穏やかで静かだった。
「以前は、料理はただ作り手から食べる人への一方的なメッセージだと思っていたの。『こんな味を届けたい』『こんな気持ちを伝えたい』って……」
シルヴィアは小さくため息をつき、続けた。
「でも、そうじゃないのかもしれないって思うようになった。私が乳母に料理を作ってもらっていた時、マルタにとっては『ただのまかない料理』だったのかもしれない。でもあの頃の私にとっては、一生忘れられない『特別な一皿』だった」
彼女は乳母との過去を振り返りながら、声を潤ませた。
「……それは、私が『優しさ』を求めていたからかもしれないわ。言葉は時々、意味を一つに縛ってしまう。でも、料理は違う。食べる人がいて、その人の心があって、初めてその一皿の意味が生まれるの」
シルヴィアの視線が、真っ直ぐにエルベルトを捉えた。
「私が乳母の料理に『優しさ』を感じたのも、キミが私の料理に『料理を続ける意味』を見出してくれたのも、きっと同じこと。キミがそれを『求めていた』から、私の料理はそう応えたんだと思う」
彼女の瞳には確信が宿り、声音には慈しみが溢れていた。
「言葉じゃないから、心が素直に受け取れる。……だから、私は信じてる──」
ほんの一瞬、彼女は間を空けて言葉を紡ぐ。
「──料理は、どんな言葉よりも雄弁だって」
そして、彼女は突然表情を緩め微笑みかけるよう、朗らかな表情をエルベルトに向ける。
「もしかしたら、私の料理を特別だと思ってくれるのは、キミが私に何か『特別なことを想っている』から、だったりしてね」
冗談めかしたその言葉に、エルベルトは先ほどよりもさらに顔を赤くした。彼は言葉を失い、ただ口をパクパクと動かすだけ。しかし、その胸の内では心臓が激しく鼓動を打ち、その音がうるさく響いているようだった。
彼自身、その「特別な何か」が何なのか、まだ名前をつけられずにいた。
だが、それは確かに存在していた。
エルベルトは耐えきれなくなったように突然扉へと向かった。
「きょ、今日はもう帰る!」
その声は普段より高く、少し上ずっていた。彼の耳まで真っ赤に染まっているのを見て、シルヴィアは楽しそうにクスクスと笑った。
「あら? もう帰っちゃうの? 残念」
彼女の声を背に、エルベルトは背中を向けることで、この奇妙な気持ちの高ぶりを隠そうとしているようだった。
しかし、ドアノブに手をかけたところで、背後からかけられたシルヴィアの困ったような声に、ぴたりと動きを止めた。
「……でも、困ったわ」
振り返ったエルベルトの目に映ったのは、腕を組んで「うーん」とわざとらしく唸るシルヴィアの姿だった。彼女の瞳には、計算された悪戯の光が宿っている。
「いつ、リヒャルトがまた嫌がらせに来るか分からないし……」
シルヴィアは大げさにため息をついた。
「最近、ありがたいことにお客さんも増えてきて、私一人じゃとてもじゃないけどお店が回らなくなってきたし……」
彼女はもう一度ため息を一つついて、ちらり、とエルベルトに視線を送った。
その目には、計画通りに事が進んでいることへの満足感が浮かんでいる。
「どこかに、雇える料理人はいないかしら? そうねぇ……できれば、王宮の厨房が務まるくらい、腕の立つ人なんて都合よく見つからないかしらねぇ〜?」
その言葉と視線に、エルベルトは全てを察した。彼女の意図は明白すぎるほど明白だった。この女性は、ただ助けられるだけの存在ではない。強く、賢く、そして少しだけ、ずる賢い。
エルベルトは観念したように、大きなため息を一つ吐いた。しかし、その目には微かな笑みが宿っていた。
「……はぁ。……明日の仕込みは、何時からだ」
呆れたような、しかしどこか嬉しそうなその声に、シルヴィアはぱっと顔を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。まるで計画通り、といった顔だ。
「そうね、日が昇り始めた頃かしら。仕入れもしないといけないし」
エルベルトは小さく頷き、再びドアに手をかけた。
「わかった。……じゃあ、また明日……シルヴィア」
その名前を意識的に、少し照れながらも、はっきりと発音すると、彼は扉を開け外へ出た。
「……あ、ええ! また、明日ね! エルベルト!」
扉が閉まる音が小さく響き、去り際に呼ばれた自分の名前に、シルヴィアは一瞬、ふと我に帰った。してやったり、と思っていたはずなのに、自分の心臓が思ったよりも激しく鳴っていることに、彼女はまだ気づかないふりをした。




