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第8話:元婚約者


 ──数日後。


 朝日が差し込む『銀の厨房』の窓辺で、シルヴィアは丁寧に野菜を洗っていた。パンは焼き上がり、店内には小麦の香ばしい匂いが立ち込めている。開店までの静かな時間。彼女はこの時間が好きだった。


 それから一時間ほど経った頃、店の扉の上にある鈴が小さく鳴った。シルヴィアは慌てて振り返る。

 そこに立っていたのはエルベルトだった。大きな麻袋を抱え、いつもの険しい表情よりも少し柔らかな顔つきをしている。


「あら? 今日は来る日じゃなかったはずじゃ? それにその大きな荷物……どうしたの?」


 シルヴィアは驚いたように言った。通常、エルベルトが手伝いに来るのは週に二日、それも午後からと決まっていた。


「ああ、伝えたいことがあって──」



 ──シャン!!



 シルヴィアが袋の中身を確認しようとした瞬間、店の扉が乱暴に開け放たれた。鈴は激しく揺れ、不協和音を響かせる。

 現れたのは、上質な服地を纏った細身の男性だった。金色がかった栗色の髪を完璧に整え、高価な宝石の留め具が胸元で光っている。その整った顔立ちには、どこか冷たさが宿っていた。


 シルヴィアの表情が一瞬で凍りついた。


「……リヒャルト」


 一言、その名を口にするだけで、彼女の声色が変わった。エルベルトは二人の間に流れる緊張に気づき、警戒の眼差しで来訪者を見た。


 リヒャルト・フォン・ハーフェンフェルト——シルヴィアの元婚約者だった。


 リヒャルトは店内を隅々まで見回した。その目には嫌悪と軽蔑が浮かんでいる。彼は鼻先を少しだけ持ち上げ、まるで悪臭でもかいだかのように顔をしかめた。


「シルヴィア。久しぶりだね、探したよ」


 その声には怒りよりも侮蔑が込められていた。彼は一歩、店内に踏み入る。

 高級な革靴が木の床を踏みしめる音が響いた。


「まさか君が、こんな物置小屋のような場所で『ままごと』に興じているとは思わなかったよ。私との婚約を一方的に捨ててまでやりたかったことが、この汚れた真似事かい?」


 シルヴィアは身を硬くした。

 しかし、すぐに彼女の目に強い光が灯った。かつての気弱な令嬢の面影はない。今や彼女は自分の店を持つ、一人の料理人だった。


「わざわざこのような辺鄙な場所までご足労いただき恐縮です」


 シルヴィアの声は冷静だった。しかしその言葉の裏には鋭い刃が隠されている。


「ここは私の『店』です。それから、婚約は『捨ててさしあげた』のですよ。あなたの退屈な自慢話に、私が愛想を尽かしたせいで」


 最後の一言で、リヒャルトの顔が一瞬で赤く染まる。


「君のその身勝手な行動が、クライネルト家と我が家にどれだけ泥を塗ったか分かっているのか!」


 リヒャルトの声が急に大きくなった。貴族的な表面の仮面が剥がれ落ち、赤裸々な怒りが露わになる。


「この縁談は家同士の神聖な約束だ。 君個人のつまらない感情で反故にできるものではない!」


 彼の言葉に、シルヴィアは冷ややかな微笑みを返した。


「家の約束ですって? あれはただの取引でしょう」


 シルヴィアは一歩前に出た。彼女の声は静かだが、その瞳には強い意志が燃えていた。


「私はもうクライネルト家の駒ではありません。私はシルヴィア。この『銀の厨房』の料理人です。あなたが望む『家名』よりも、目の前でお腹を空かせているお客様のほうが、私にとってはよほど大事なので」


 リヒャルトの顔が怒りで歪んだ。彼の目に宿る冷たさは、さらに凍てつくものに変わった。


「口の減らない女め……! クライネルト家の恥を晒していることを理解しているのか!?」

「恥を晒しているのは、婚約者に逃げられたあなたではなくて?」


 シルヴィアの返答は冷静だったが、その言葉はリヒャルトの自尊心を直撃した。彼は言葉に詰まり、次第に顔を真っ赤にしていく。


「お前という女は……!」

 リヒャルトの声は震えていた。


「王都の辺鄙な場所で、下品な平民相手に飯を作る──それが高貴なクライネルト家の令嬢のすることか! お前の頭は狂ったのか? まともな教育を受けた者がやることではない!」


 シルヴィアが何か言い返そうとしたその時、エルベルトが間に割って入ってきた。


「なあ。あんたは、彼女が作った料理を食べたことがあるのか?」

「下男風情が何だ! これは貴族同士の話だ! 下がっていろ!」

「はぁ……」


 エルベルトは短く溜息を吐き、その言葉に従うように厨房へと静かに歩いていった。彼の背中が見えなくなると、リヒャルトは再びシルヴィアに向き直った。その目には勝ち誇ったような光が宿っていた。


「そもそも、高貴な生まれの者が、平民のために料理を作る──それこそが恥だ。君は自分の立場を忘れている」


 リヒャルトの声には冷笑が混じっていた。


 シルヴィアが反論しようとした瞬間、彼らの背後から足音が聞こえた。

 ——振り返ると、そこにはエルベルトが立っていた。手には丁寧に盛りつけられたポトフの入った皿を持っている。湯気が立ち上り、店内に野菜の優しい甘さが漂っていた。


 エルベルトの表情は穏やかだったが、その目は鋭く、まっすぐにリヒャルトを見つめていた。


「食べてみろ」

 突然の問いかけに、リヒャルトは一瞬、戸惑った表情を浮かべた。


「食べろだと? 貴様は何様のつもりなんだ?」

「これは、シルヴィアの料理だ」


 エルベルトの声は静かだが力強かった。


「料理を食べもせずに否定するのは、剣を振ることなく剣士を批判するようなものだ。本物の貴族なら、そんな愚かなことはしないはずだがな」


 その声には、手に持った料理に対する純粋な真摯さに満ちていた。

 リヒャルトはポトフを一瞥し、顔をしかめた。スープの中の野菜は丁寧に切られ、湯気と共に立ち上る香りは温かく、心を和ませるような力を持っていた。


「そんな平民が食べるような汚らわしいものに、私が口をつけると思うのか」

「いいから、食べろ」


 リヒャルトの目に嫌悪の色が濃くなった。


「しつこい! さすがに冗談も度が過ぎる!」


 彼は突然、手を伸ばすと、エルベルトが持つ皿を乱暴に払いのけた。皿は床に落ちて砕け散り、丁寧に作られたポトフの野菜とスープが木の床に無残に広がった。


 店内に、静寂が広がる。

 シルヴィアの目が驚きに見開かれる。しかし、それ以上に彼女の心を打ったのは、エルベルトの表情だった。彼の目に、これまで見たことのないほどの怒りが燃えていた。


「さあ、シルヴィア。こんなところにいないで、さっさと家に──」

 リヒャルトがシルヴィアの腕をつかみ、引っ張ろうとした。


「い、痛い!」

 シルヴィアの声が上ずった瞬間、──エルベルトの体が動いた。


 ──ゴッ!!


 彼の拳がリヒャルトの顔面に叩き込まれる鈍い音が、小さな店内に響き渡った。

 リヒャルトは弾かれたように後ろに倒れ、床に尻餅をついた。


「ぐっ!……な、何をする!」


 リヒャルトは鼻を押さえ、信じられないという表情でエルベルトを見上げた。鼻から血が少しずつ滲み出ている。

 エルベルトはリヒャルトを見下ろした。その目は、今まで誰も見たことのないほど感情的だった。普段の冷静さは消え失せ、怒りが彼の全身から溢れ出していた。


「シルヴィアの料理を食べもせず、侮辱する資格はない!」


 エルベルトの声は低く、しかし力強かった。

 シルヴィアはエルベルトの変わり様に、ただただ驚くばかりだった。いつもの冷静で皮肉めいた彼の姿はどこにもない。今ここにいるのは、彼女のために怒り、彼女の料理の名誉のために立ち上がった一人の男だった。


 リヒャルトはようやく混乱から立ち直り、震える手で床を押し、立ち上がろうとした。


「わ、私を殴ったな貴様! 私はハーフェンフェルト家の人間だぞ! 許さん、必ず報いを受けさせてやる!」

「知ったことか!」


 エルベルトは一歩も引かなかった。


「食材を無駄にするやつは貴族だろうが、なんだろうがぶっ飛ばすぞ!」


 リヒャルトはようやく立ち上がると、埃にまみれた上等な服を苛立たしげに手で払った。彼の顔に浮かぶのは、屈辱と怒り。そして、すべてを理解しようとする探るような視線だった。


「くそっ! 覚えていろ……! お前のような女に、もはや貰い手などいるものか!」


 その言葉が、エルベルトの理性の最後の砦を崩した。


「いや、ここいるさ! シルヴィアの婚約者は、俺だ!」


 その宣言が、店内に雷鳴のように響き渡った。

 静寂が、まるで分厚い壁のように三人の間に立ちふさがる。


 リヒャルトは、殴られた痛みも忘れ、ただ呆然とエルベルトを見上げていた。何を言われたのか、一瞬、理解が追いついていないようだった。彼の視線がエルベルトから、その背後で息を呑むシルヴィアへとゆっくりと移る。


 シルヴィアは驚きに見開かれた瞳で、エルベルトの広い背中をただ見つめていた。その姿が、リヒャルトの目には男に庇護される恋人の姿に映ったのだろう。瞬間、彼の頭の中で、今まで理解できなかった全てのピースが組み上がっていく。


 シルヴィアが、あれほど誇り高かったクライネルト家の令嬢が、家を捨てた理由。貴族の暮らしを投げ打ってまで、こんな辺鄙な場所で「ままごと」に興じていた意味。


「……まさか。……ははは! そうか、そういうことなのか!」


 狼狽は、やがて沸騰するような憎悪へと変わった。もはや彼の顔に、かつての貴族的な余裕は一片も残っていない。あるのは、泥を塗られたことへの屈辱と、全てを奪われた男の嫉妬だけだった。


 彼は侮蔑に歪んだ笑みを浮かべ、二人を交互に睨みつけた。


「……フン。堕ちたものだな、シルヴィア。せいぜい、その平民と泥の中で愛を育むがいい」


 それは、もはや怒鳴り声ではなかった。

 心の底から湧き出たような、冷たく、粘つくような声。


「だが覚えておけ。家を捨て、恥を晒したお前たちに、安寧など訪れはしないぞ!」


 最後の呪詛を吐き捨てると、リヒャルトは踵を返した。


 乱暴に扉を開け、まるで汚物から逃げるように店から飛び出していく。バタン、と閉められた扉の音が店内に虚しく響き渡り、後には床に散らばったポトフの残骸と、気まずい沈黙だけが残された。


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