第3話:宮廷料理人
エルベルト・ヴァレンは王宮の厨房を出ると、肩の力を抜いて深く息を吐いた。
今日も主厨房の料理長からの無理難題と、周囲の嫉妬の視線に囲まれての一日だった。数十品以上の料理を完璧に仕上げても、何一つ褒められることはない。それどころか、彼より経験豊かな料理人たちは彼の成功を妬み、わざと邪魔をすることもあった。
「もう二年になるか……」
彼がこの国で最も格式高い厨房の扉を叩いた日から、それだけの月日が流れた。
あの頃は、夢と希望に満ちていた。 いつか、食べる人の顔が見える場所で、誰かのための一皿を届けたい──その一心で、がむしゃらに腕を磨いた。
そして掴んだ、『宮廷料理人』という最高の栄誉。
王宮では、料理は食べる人の笑顔を見るためのものではない。それは王家の「権威」を象徴するものに過ぎず、彼らは顔も知らない相手のために皿を飾るだけだった。
十九歳の彼が抱いていた「誰かのための一皿を作る」という夢は、今や遠い記憶になりつつあった。
──いつからだろう。食べる相手の顔を想像するのをやめたのは。
──いつからだろう。料理はただ完璧にこなす「作業」になったのは。
純粋な想いは、この場所では邪魔になるだけだ。だから、蓋をした。 ただひたすらに、目の前の食材と向き合う。誰のためでもない。完璧な一皿を、寸分の狂いもなく作り上げる。それだけに集中することで、俺は心のバランスを保ってきた。
おかげで、二年で見習いから抜け出し、いくつかの料理を任されるまでになった。
だが、その代償に、彼は料理人として一番大切なものを失ってしまった。
「はぁ……」
エルベルトは溜息混じりに、石畳の通りを足早に歩いていた。
彼の数少ない楽しみの一つが、この王都の料店巡りだった。王都には大小様々なお店があり、そこで他の料理人たちの技を味わうことが、彼にとっては息抜きであり、同時に学びの場でもあった。
東区の大通りを歩いていると、風に乗って漂ってきたのは、懐かしさを覚えるような匂い。
「この匂いは……」
エルベルトは足を止め、風の方向を確かめるように鼻を動かした。野菜の甘さと肉の旨味が溶け合った温かな香り。それは彼が子供の頃、母親が作ってくれたポトフを思い起こさせる素朴な匂いだった。
好奇心に駆られ、彼は匂いの源を求めて足を進めた。
東区の曲がりくねった路地を抜け、古い石畳の小道に入ると、そこには小さな木造の建物があった。看板には『銀の厨房』と書かれている。
「新しい店か?」
エルベルトは窓ガラス越しに店内を覗き込んだ。中には六つのテーブルと小さな厨房があり、一人の女性が慌ただしく動き回っていた。彼女の動きには無駄が多く、素人のようなぎこちなさがあった。しかし、彼女の表情には真剣さと、どこか穏やかな笑顔が浮かんでいた。
金に輝く長い髪を後ろで束ね、額に汗を浮かべながら、彼女は器に何かを注いでいる。その仕草さえも不慣れで、スープが少しこぼれていた。
「なんだ、あの手際の悪さは」
エルベルトは思わず眉をひそめた。
しかし、その匂いに惹かれる気持ちは消えない。むしろ、見るからに素人の作る料理がなぜこれほど懐かしい香りを漂わせているのか、彼の好奇心が刺激された。
自分でも理由はわからなかったが、エルベルトは扉に手をかけていた。ドアの上の鈴が小さく鳴り、彼は静かに店内へと足を踏み入れた。




