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第2話:『銀の厨房』開店


 王都に降り立ったシルヴィアは、まず圧倒された。


 人、人、人。石畳の通りは、見たこともないほどの人々で溢れていた。商人の呼び声、馬車の車輪が石を叩く音、子供たちの笑い声、怒鳴り声、物を売る声──すべてが混ざり合い、まるで波のように彼女に押し寄せてくる。


 クライネルト家の屋敷は、常に静寂に包まれていた。使用人たちは音を立てないように訓練され、廊下を歩く足音さえも憚られる空間。それが当たり前だと思っていた彼女にとって、この喧騒は別世界のようだった。


 布包みを胸に抱き、シルヴィアは人混みの中を歩き始めた。

 行き先も、泊まる場所も、何も決まっていない。ただ、前に進むしかなかった。


 最初の三日間は、安宿に身を寄せた。狭く、薄暗く、隣の部屋から壁越しに話し声が聞こえてくる部屋。それでも、初めて「自分で選んだ場所」だった。


 日中は王都を歩き回った。どこかに小さな店を借りられる場所はないか。料理人として働ける場所はないか。しかし、見知らぬ土地で、身寄りもなく、料理の経験もほとんどない彼女を雇ってくれる店などなかった。


 四日目の朝、シルヴィアは東区の古い通りを歩いていた。大通りから少し外れた、人通りの少ない石畳の小道。そこで、彼女は一軒の古ぼけた建物の前で足を止めた。


 二階建ての木造建築。外壁の塗装は剥げかけ、窓ガラスが見える部屋は埃をかぶっている。扉には小さく「貸店舗」と書かれた札が掛かっていた。


 シルヴィアは息を呑んだ。


 ──ここだ。


 なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。


 大家との交渉は思ったよりも簡単だった。持っていた宝石を一つ売った資金で、三ヶ月分の家賃と保証金を支払う。大家は「若い娘さんが一人で店なんて」と心配そうに言ったが、シルヴィアの決意に満ちた目を見て、何も言わなくなった。


 鍵を受け取り、初めて店の中に足を踏み入れた時、シルヴィアの胸は高鳴っていた。


 ──これが、私の店。


 埃だらけの床、蜘蛛の巣が張った天井、割れた椅子が積まれた隅。それでも、彼女にはこの空間が宝物のように思えた。一階はすべて店舗スペースになっていて、奥に小さな厨房がある。二階には寝室として使える小さな部屋が一つ。


 六つのテーブルと椅子を揃え、看板を作り、食器を買い揃える。

 残った資金はどんどん減っていったが、シルヴィアは後悔しなかった。



 そして数週間後、『銀の厨房』は開店の日を迎えた。


 店の名前の由来はもちろん、料理人になると決意した『銀の包丁』から。


 開店前の早朝、シルヴィアは厨房に立っていた。窓から差し込む朝日が、磨き上げた調理台をわずかに照らしている。


 彼女は深く息を吸った。木と石鹸の匂い。新しい布巾の匂い。そして、これから始まる一日への期待と不安が入り混じった、言葉にできない感覚。



 シルヴィアは腰に紐を結び、袖をまくり上げた。金色の髪を後ろで束ね、調理を始めようと意気込む。

 しかし、現実は甘くなかった。


「くっ……あれ、なんでつかないの?」


 まず最初の試練は、炉に火を起こすことだった。

 シルヴィアは炉の前にうずくまり、火打石を何度もこすり合わせていた。小さな火花は散るものの、薪に火が移らない。


 一度、二度、三度──。


 彼女の額に汗が滲む。火打石を握る手が痛くなってきた。それでも諦めずに、四度、五度──。

 十回目の試みで、ようやく小さな炎が薪の端に灯った。


「ついた!」


 シルヴィアは思わず声を上げ、安堵のため息をついた。


 ──しかし、その息が災いした。

 ふっ、と炎が揺らぎ、一瞬消えかけたのだ。


「あっ!」


 彼女は慌てて息を止める。炎は危うく消えそうになりながらも、なんとか薪にしがみついていた。シルヴィアはじっと動かず、炎が安定するのを祈るように見つめる。

 やがて、炎は少しずつ大きくなり、薪全体に広がっていった。ぱちぱちと心地よい音を立てて、炉が温かさを放ち始める。


「ふぅ……」

 シルヴィアは額の汗を拭い、立ち上がった。しかし、次の瞬間、彼女は自分の手が真っ黒になっていることに気づいた。炉の煤が、知らないうちに顔や服にもべったりとついている。


「あ、あら……」


 慌てて煤を払おうとしたが、それが逆効果だった。黒い汚れが顔中に広がり、金色の髪にまで付着してしまう。


 ──まだ、最初の一歩なのに。

 野菜の下ごしらえは、さらなる試練だった。


 市場で買ってきたばかりの新鮮な野菜たち。シルヴィアは『銀の包丁』を手に取り、まな板の上のにんじんに向かった。


 しかし、持ち手を握る彼女の手は不慣れで震えていた。


 一つ目のにんじんを切る。厚さがバラバラだ。

 二つ目を切る。今度は薄すぎた。

 三つ目を切ろうとして、包丁が滑った。


「あぶない!」


 シルヴィアは思わず包丁を落としそうになり、刃が指先をかすった。

 

「ああっ!」


 小さな悲鳴と共に、シルヴィアは急いで指を口に含んだ。かすり傷で済んだが、心臓が早鐘を打っている。


 ──危なかった。気をつけないと。



 床掃除も一苦労だった。昨日まできれいに掃除したはずなのに、また埃が溜まっている。ほうきの使い方から覚えなければならず、掃いても掃いても埃が舞い上がるだけ。

 ようやく塵取りに集めた埃を、風が吹いて再び散らばったときには、思わず涙が出そうになった。


「どうして……こんなに、難しいの……」


 貴族の娘として何を教わってきたのだろう。

 掃除、洗濯、料理──生きていく上で必要なことを何一つ教わらず、詩や音楽、舞踏といった「飾り」ばかり身につけてきた自分が、情けなく思えた。


 しかし、彼女には一つだけ、誰にも負けないものがあった。

 それは、育ての親とも言える乳母から密かに教わった料理の「ポトフ」だった。


 彼女は調理台の上に並べた雑多な野菜たちを見つめた。形は不揃いでも、そこから生み出される一皿には、きっと彼女の想いが込められるはずだった。


「今日も、誰かを笑顔にできますように」


 そう祈るように呟き、シルヴィアは震える手で包丁を握りしめた。


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