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第1話:馬車に揺られて


 王都へと続く街道を進む乗り合い馬車の中で、シルヴィアは静かに窓の外を眺めていた。なだらかな丘を越えた瞬間、地平線の先に巨大な城壁と無数の尖塔が姿を現した。


 あれがこの国の王都オリアーノ。これから彼女がたった一人で生きていく場所。


 窓の外の景色が、見慣れたのどかな風景から、次第に人々や荷馬車の往来が激しい活気あるものへと変わっていく。聞こえてくる様々な声や物音は、これまで彼女が暮らしてきた静寂な屋敷とはまるで違う、荒々しくも力強い世界の響きを持っていた。


 市場の呼び売りの声、石畳を走る子供たちの笑い声、商人たちの交渉の声──すべての音が彼女の耳に新鮮に響いた。馬車が王都の入り口に近づくにつれ、周囲の風景は農地から商店や職人の工房、そして行き交う人々で溢れる活気ある街並みへと変わっていく。

 シルヴィアは膝に置いた布包みを、祈るように強く握りしめた。中にあるのは、この旅立ちを決意し、古物商から買った、一本の『銀の包丁』。

 料理人として生きるという、彼女の唯一にして最大の覚悟の証だった。


 シルヴィア・フォン・クライネルト──それが、昨日までの彼女の名前。

 クライネルト伯爵家。この国において、その名を知らぬ者はいない。


 代々、王宮において重臣を輩出し、広大な領地を治める名門中の名門。伯爵家の中でも特に格式が高く、その影響力は侯爵家にも匹敵すると言われていた。クライネルト家の紋章──銀の盾に刻まれた獅子──は、誇り高き血統の証であり、同時に重い責任の象徴でもあった。


 そんな家に生まれた彼女は、物心ついた頃から「クライネルト家の令嬢」としての振る舞いを叩き込まれてきた。詩、音楽、舞踏、礼儀作法──すべては「名門に相応しい花嫁」になるための教育だった。

 彼女が学んだのは、言わば『飾り』ばかり。


 両親が興味を向けているのは娘の彼女ではなく、クライネルト家の家督をどう繋ぐか、いかに家の影響力を維持し拡大するか、ということだけだと、幼い頃から気づいていた。


 そして先月、会ったこともない他家の子息との婚約が、まるで駒を動かすように決められた。

 彼女の脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。


 婚約者との初めての顔合わせ。それは、クライネルト家の大広間で執り行われた。



── ── ──



 天井から吊るされたクリスタルのシャンデリア、壁を飾る歴代当主の肖像画、磨き上げられた大理石の床──すべてが名門の威光を誇示するかのように輝いていた。


 シルヴィアは最上級のドレスに身を包み、完璧な姿勢で椅子に腰掛けていた。その隣には、表情一つ変えない父と母。彼らの視線は娘ではなく、今まさに扉から入ってくる「取引相手」へと向けられていた。


 扉が開き、現れたのは金色がかった栗色の髪を完璧に整えた、細身の青年、子爵家の長男。


 はじめは、少しだけ期待したのかもしれない。


 この息の詰まる家から解放される、と。

 もしかしたら、自分を一人の人間として見てくれる人かもしれない、と。


 けれど、その淡い期待は、彼との顔合わせで粉々に砕け散った。


「シルヴィア様。お初にお目にかかります。リヒャルト・フォン・ハーフェンフェルトと申します」


 丁寧な挨拶。完璧な礼儀作法。

 しかし、彼の瞳はシルヴィアを見ていなかった。彼が見つめていたのは、彼女の背後に掲げられた銀獅子の紋章だった。


「このような名誉ある縁談を賜り、ハーフェンフェルト家一同、感激の極みでございます」


 リヒャルトの声は流暢で、よく通った。まるで事前に何度も練習してきたかのように、一つの淀みもなく言葉が紡がれていく。


「私は、幼少の頃より学問に励んで参りました。王立学院では首席の成績を収め、剣術においても……」


 彼は自身の経歴を、誇らしげに、そして延々と語り始めた。どれほど優秀であるか。どれほど家名に貢献してきたか。そして何より──


「クライネルト伯爵家との縁組により、両家の地位はさらに盤石なものとなるでしょう。これは、誠に喜ばしいことです」


 彼の言葉の中に、シルヴィア個人への関心は一片もなかった。


 彼女の好きなものは何か。何に興味があるのか。どんな人間なのか。

 そんなことは、彼にとってどうでもよかった。


 彼が求めているのは「クライネルト家の令嬢」という肩書きであり、それによって得られる地位と影響力だけだった。


 会話の全てが「ハーフェンフェルト家」と「クライネルト家」についてであり、「シルヴィア」について一言も語られなかったこと。


 彼女は完璧な笑みを浮かべたまま、ただ黙って頷いた。拒否することなど、許されていなかった。



 ──ああ、結局何も変わらない。



 鳥かごが少し大きくなるだけ。この人の隣にいても、私はやはり「クライネルト家の娘」でしかない。一人の人間として見られることは、永遠にないのだろう。


 その瞬間、彼女の中で何かが静かに、しかし決定的に壊れた。


 ──この人は、私を愛することなど、永遠にない。


 家柄という見えない鎖に縛られ続ける人生。完璧な花嫁として、ただ飾られるだけの未来。

 シルヴィアはもう、うんざりしてしまった。


 それから数日後、彼女は決断した。


「婚約は辞退させていただきます。私は、私の人生を生きます。──シルヴィア』


 それだけを記し、彼女は夜明け前の闇に紛れて屋敷を後にした。



── ── ──



 馬車が大きく揺れ、シルヴィアは窓の外に見える王都の景色に目を向け、小さく息を吐いた。


「宝石も、ドレスも、すべて売り払った。残ったのは僅かな資金と、一本の包丁だけ」


 彼女は布包みの中の包丁を、もう一度強く握りしめた。


「……いいえ、それで十分」


 馬車が目的地に着き、シルヴィアは決意を秘めた瞳で、これから自分の戦場となる王都に降り立った。

 石畳の上に降りた彼女の靴音は、新しい人生の幕開けを告げるように、はっきりとした音を立てた。



 もう、後戻りはできない。

 そして、したくもなかった。



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