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この素晴らしいネットの世界に愛をこめて

作者: レン太郎

 満員の通勤電車に乗り込む、いつもと変わらない日常。

 いろんな人々がひしめく、珍獣動物園という名のこの乗り物は、あたしを会社という理不尽な場所へと運ぶパイプラインにすぎない。

 あたしは、垢でべっとりと汚された手すりにつかまり、この地獄から解放されるのを、ひたすら待っている。

 だが、解放されても地獄だというのは変わらない。空間と呼ぶには乏しい狭い中で、珍獣たちは、忙しげにケータイを開き、無表情にキーを打ち込んでいる。

 友人へのメールだろうか。それとも、コミュニティサイトへの現実逃避──。どちらにせよ、この現実という名の生き地獄よりマシなのは確か。

 あたしも便乗して、昨日書いたブログのチェックをしようと、壁を背にしてケータイを開く。何件かのコメントが寄せられているのを見て、少しほくそ笑む。

 このネットという馴れ合いの世界は、あたしを心地良い異空間へと連れて行ってくれる最適な場所。あたしのつたない、メールの延長のような文章を読んで、一喜一憂してくれる人がここには存在する。

 不思議なものだ。この狭い、人がひしめき合ってる電車の中、人々はそれぞれにケータイを開き、自分の世界へ逃避している。いくつもの世界が、ケータイを開くだけで繋がるのだから、ネットというのは実に素晴らしい。


 馴れ合い?

 烏合の衆?


 そんなことどうでもいいじゃない。この生き地獄に比べたら、ここはまるでパラダイス。

 そういえば、元カレはネットが嫌いだった。あたしが、ネットでブログを書いていると知った元カレは、公園にある岩をめくり上げ、その下で群がる虫を指差し「ほら、ここがお前のいる世界だよ」と笑っていたので、思い切り張り倒してやった。別れた理由も、それだった。

 電車の中、ケータイの画面を見つめるあたし。コメントのひとつひとつを読みながら、幸せを感じるあたし。

 あたしが、特別なわけではない。みんな、ケータイを開いて同じことをしているに決まっている。あたしはこの風景に、完全に同化していることだろう。

 と思っていたその時──、あたしは自分のお尻に、猛烈な違和感を覚えていた。撫で回すように、いやらしく動くその手つきは、明かに意図的なものを感じさせた。


「痴漢だ」


 そう思ったあたしは、そのままの状態で、次の駅に着くのを待った。そして駅に着き、ドアが開いたと同時に、その手をむんずと掴み、電車から引きずり降ろした。

 その痴漢、見たところ、中年のサラリーマンのようで、予想外の展開に目をまるくさせ、おどおどしていた。中間管理職のストレスだかなんだか知らないが、あたしの高貴なお尻を触るとはいい度胸をしている。


「この人、痴漢です!」


 近くにいた駅員にそう叫んだ途端、そいつはあたしの手を振りほどき、逃げようとした。

 あたしは「逃がすか」という思いで、再びそいつの手を掴み、持っていたアタッシュケースの角を、鼻っ柱に叩きつけた。

 ゴキィという鈍い音。鼻血がシャワーのように吹き出し、そいつは倒れ込んだ。もしかしたら、鼻の骨が折れたかもしれない。

 苦しみ、のたうちまわった揚句に、駅員に連行される痴漢を見送ると、あたしはケータイを開いた。

 さて、コメントに返事しなきゃ。

 だって、この腐れきった生き地獄なんかより、素敵な世界なんだから。



(了)


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