静かなる革命のその後 副題:定時に終わる仕事、それは革命
【Aパート】静かすぎる仕事時間
午前9時2分、いつものように田辺はオフィスの入り口をくぐった。
眠気まなこでエレベーターに乗り、薄暗いフロアに足を踏み入れる。誰もまだ会話を交わしていない、静かな始業前。だが、今日は――違う。
田辺は、自席に腰を下ろすと、ノートPCの電源を入れ、すぐに目的のファイルを立ち上げた。
「……よし、やるか。革命の朝だ」
彼が開いたのは、昨日まで深夜残業の原因だった“週次レポート生成用”Excelファイル。今日からそこには、新たに実装されたマクロボタンが鎮座している。
一度は諦めたのだ。無駄だと、非効率だと笑われても、繰り返される単純作業に逆らうことを。
だが、彼は抗った。先週の土日すべてを費やして、ついに完成させたのだ。
田辺は、深呼吸してから、Enterキーを押した。
カタッ。
Excelのセルが走り、ステータスバーに「実行中」と一瞬表示されたと思えば、わずか3分後にはレポートが完成していた。
フォルダに保存されたPDFファイル。自動入力されたグラフと数値。名前もフォーマットも、すべて完璧。
田辺(心の声)
「……終わった? いや、早すぎる……」
画面をじっと見つめる。時間はまだ9時8分。
「バグ……? いや、確認しろ、田辺」
彼はファイルを開いてひとつひとつ目視でチェックし、数式の中身を覗き、実データと照合し、サーバーへのアップロードまで実施した。
ノーミスだった。
完璧だった。
田辺(心の声)
「これが、俺の……革命……?」
だが、達成感よりもまず先にやって来たのは、不安だった。
まだ午前9時半にもならないデスクで、手持ち無沙汰に画面を見つめる田辺。
「あれ? 他に……何か忘れてる? いや、そんなはずは……」
PCの前で固まる田辺の姿に、隣の席の先輩・風間主任が声をかけてきた。
「田辺。今朝のレポート、もう上がってたよな。お前が作ったんだよな?」
田辺「……はい」
風間主任は一瞬、目を丸くしたが、ふっと笑って言った。
「すげぇな。……今日は、もう帰っていいよ」
田辺「……は?」
風間「冗談だよ。でもまあ、残業しないで帰れるって、良いことだろ?」
田辺は、笑うこともできず、ただ無言でうなずいた。
PCを静かにシャットダウンし、社員証を首から外す。
その手が、微かに震えていた。
田辺(心の声)
「……定時、か」
【Bパート】誰にも気づかれない、でも確かに起きた変化
時計の針は、定時の一時間前を示していた。
オフィスはいつも通り、いや、いつも以上に静かだった。キーボードの音、マウスを動かすカチカチという微かな音、コピー機の稼働音――日常の雑音が、やけに遠くに感じる。
田辺誠司は、モニターの前でじっと座っていた。
その目は、すでに何度も確認したレポートファイルに釘付けになっている。
「……エラーは、ない。体裁も整ってる。アップロードも完了……」
脳裏に浮かぶ言葉は、確認と自問の繰り返し。しかし、答えは何度やっても変わらなかった。完璧に終わっていた。
椅子を小さく揺らしながら、田辺はExcelを無意味に開いたり閉じたりした。もうやることなど何もないのに、それを認めるのが怖かった。
ふと、周囲を見渡す。
向かいの席の佐藤は、眉間にしわを寄せながら膨大な数値と格闘中。
隣の新垣は、電話を片手に客先との調整をしている。
フロア全体に、どこか疲れた残業ムードが漂っていた。
その中で、ひとりだけ“終わっている”自分。
……まるで、世界から取り残された気分だった。
「田辺くん」
声がして、ハッと顔を上げると、風間主任が資料を手に立っていた。
手元のプリントアウトされたレポートをパラパラとめくる。
「このマクロ……君が作ったんだよね?」
「……はい」
風間は数秒間、資料と田辺を交互に見比べてから、ふっと笑った。
「すごいな。完璧じゃないか。俺がさっき見たものと数字も合ってるし、レイアウトも見やすい」
田辺の喉がごくりと鳴る。
「……ありがとうございます」
「今日は、もう帰っていいよ」
その言葉に、一瞬、時が止まったような感覚がした。
思わず、自分の席の周囲を見渡す。誰もこちらに注目してはいない。だれも、なにも変わっていない。
それでも、たしかに起きていた。
自分のなかの、小さな変化。いや、これは――革命だ。
【Cパート】革命の余韻
廊下に、足音ひとつ。
まだ蛍光灯の灯るオフィスを背に、田辺はゆっくりと歩く。
カチカチ、と革靴が床を鳴らすたびに、妙な現実感が足元から這い上がってくる。
──定時前に帰る。
それだけのことなのに、なぜこんなに背中がざわつくのか。
ロッカールームには誰もいない。
田辺は静かに自分のロッカーを開けると、社員証を外し、そっとカバンにしまった。
(……本当に、終わったんだな)
いつもなら「ここからが本番」と思いながら、疲れた頭でエクセルをにらみ続けていた時間。
今日はもう、それがない。
「……」
出口の自動ドアの前で立ち止まる。
ガラス越しに、まだ明るい空が見えた。
そして、田辺はポケットからスマホを取り出し、画面の時計を見る。
秒針が、無音で進んでいた。
「……定時、か」
その言葉は、誰に届くでもなく空気に溶けた。
けれど確かに、それは“革命の余韻”だった。
何も壊れず、誰にも知られず、それでも世界は少しだけ変わった──静かに。
田辺はゆっくりとドアをくぐり、まだ夕暮れには遠い、明るい外の世界へと歩き出した。
■ラストシーン
オフィスは、いつもと同じ風景だった。
コーヒーの香り。
無数のマウスクリック。
遠くから聞こえる、上司の咳払い。
──でも、そのどれもが今日は、少し遠く感じた。
まるで自分だけ、違う時空に立っているような感覚。
田辺は静かに立ち上がる。
ディスプレイの前には「処理完了」の文字。もう確認も、ダブルチェックも要らない。
何度も検証した。バグは……ない。
ふぅ、と息を吐きながら社員証に手を伸ばす。
首から提げていたIDカードを外し、そっとカバンにしまい込んだ。
時計の針は、定時を指しかけていた。
「……定時、か」
誰にも聞こえない声で、ぽつりとつぶやく。
立ち上がった彼を誰も止めない。
声も、視線すら交わさない。
ただ、その背中に、わずかな空気の揺れがあった。
田辺はドアの前で一瞬だけ立ち止まり、それから静かに扉を開けた。
蛍光灯の白い光から抜け出し、まだ青さを残す空へと歩き出す。
──その瞬間、誰も気づかなかった。
革命は、もう始まっていたのだ。