2章:第4話:Excel中級魔導士への進化
【導入】「時短」こそ、反抗の第一歩
終電のホーム。静まり返ったプラットフォームの片隅で、田辺は独り、小さく呟いた。
「“定時”とは……この世界に存在しない幻想だったか……」
宵闇にかじるからあげの余韻を噛み締めながら、田辺の脳裏に浮かんでいたのは、ひとつの仮説だった。
――この国では、“時間”こそがもっとも搾取される資源。
ならば、取り返すまでだ。己の時間を。すなわち、時短こそが反逆の呪文。
「……魔術体系として、整理するか」
彼が最初に手をつけたのは、膨大なコピペ作業だった。
請求書の記入、発注リストの転記、月末の数字の照合作業……そのすべてが“時間泥棒”であり、そして“非効率の象徴”だった。
田辺はエクセルの列と行を見つめながら、指を組み、詠唱を始める。
「第一階位、《参照魔術(VLOOKUP)》……」
数式を打ち込むたびに、魔力が発動していく(ような気がする)。
かつて王宮の魔導書を読み漁った身として、構文と構造には親和性があった。
「この世界では、魔法とは“手順を省く技術”のことらしいな……」
やがて田辺は気づく。魔力の根源、それは“無駄の削減”に他ならない。
Excelはただの道具ではない――この世界における魔術の媒体なのだ。
――時短魔術の探求が、思わぬ出会いをもたらす。
ある日のことだった。
田辺は、自席のPCに送られてきた“超重量級Excelファイル”の中に、奇妙な気配を感じ取った。
シートの奥深くに潜む不可視の構造。
通常の関数ではあり得ぬ挙動。
開くたびに警告を発する“謎のセキュリティアラート”……。
「……このファイル、ただの表計算じゃないな」
田辺は、探索を開始した。
ツールバーを開き、開発者タブを表示する。
そこに潜んでいたのは――
《Visual Basic for Applications》、通称「VBA」。
それは、この社畜王国の片隅に埋もれた、失われた魔導の言語だった。
コードは長大かつ、緻密だった。
時に詩のように優雅で、時に呪術のように複雑。
その呪文群は、あらゆる重複作業を自動で処理し、田辺の想像を超える速さでシートを操っていた。
その時、田辺の背後から声がした。
「おまえ……まさか、俺のマクロを読んでるのか?」
振り返ると、そこにはひとりの中年社員。
Yシャツの袖はよれ、指には紙のカサつき、目元には“if文”のような深いシワ。
だがその目は、デバッグ済みのように澄んでいた。
「久賀です。昔、この部署で“Excel職人”とか呼ばれてた」
田辺は、驚きを隠せなかった。
この会社に伝わる都市伝説――「一日で週報が完成する魔術師」が、まさに目の前にいたのだ。
「関数を“力場”って呼ぶやつ、初めて見たな」
久賀は笑った。心底、楽しそうに。
田辺が語る《SUM関数は空間を収束させる魔力場》という解釈に、
「じゃあIFは条件結界か? なるほどな」と相槌を打つ。
そして、ふと真顔になった。
「……おまえ、面白いな。弟子になるか?」
その日から、田辺のExcel魔術修行が始まった。
久賀の指導は厳しく、だが的確だった。
“マクロは走らせる前に思考せよ”、
“FOR文には誇りを込めろ”、
“エラーは試練であり、進化の兆し”。
田辺は次々と新たな《魔術式》を学び、今まで1時間かかっていた報告資料が3分で完成するまでに至った。
そしてある日、同僚たちがぽつりとつぶやく。
「田辺さん……なんかもう、帰ってよくないっすか?」
その一言に、田辺は一瞬戸惑う。
――これまで“帰る権利”など与えられたことがなかったのだから。
けれど、気づいたのだ。
これは、ただの早退ではない。
**《反抗の第一歩》**なのだ。
久賀は言った。
「魔術ってのは、誰かの時間を救うためにあるんだよ」
その言葉が、田辺の胸に刻まれる。
彼はまだ“中級魔導士”。
だが、かつてないほど明日に希望があると感じていた。
【出会い】Excelの老練なる魔術師
社内の空気が重苦しい午後三時──田辺は、言い知れぬ予感に導かれるように、社内サーバーの奥底に眠る古いファイルを開いた。
「……これは?」
見た目はただの見積書。しかし、シートを切り替えた瞬間、異質な気配が漂った。Alt+F11──マクロ編集画面を開くと、そこには一連のVBAコードがびっしりと並んでいた。
コメントもなく、だが異常に整然とした構造。まるで魔導書のようなそのコードに、田辺は本能的な畏怖を感じた。
「このロジックの組み方……尋常じゃない」
だが、次の瞬間、背後から声が響く。
「おいおい、勝手に人の“召喚陣”をのぞくもんじゃないぜ?」
振り返ると、そこにはくたびれたジャケットにカフェイン臭の染みついた男──久賀先輩が立っていた。
「あなたが……このマクロを?」
「そうさ。もう五年前に組んだやつだけどな。まさか、今どきの若いのが興味を持つとは……」
久賀はコードの一部を指でなぞる。
「この辺、ちょっとクセあるだろ? 俺しか読めねえようにしてるんだよ。セキュリティの代わりに、詩的ロジックでな」
田辺はうなずきつつ、ぽつりと呟いた。
「……SUM関数の“力場”が、ここで一気に収束してる。計算魔術の構造が、波動式みたいだ」
久賀が吹き出した。
「おまえ、面白いな。関数を魔術で説明するやつ、初めて見たぞ!」
そう言って、久賀は田辺の肩をぽんと叩いた。
「よし、今日からおまえは俺の弟子だ。残業代は出ねぇが、魔力はつくぜ」
田辺は、まだ見ぬ“魔術体系”の奥深さに胸を震わせながら、深く一礼した。
「……師匠、よろしくお願いします」
こうして田辺は、社畜の世界に眠る“禁断の魔導書”を読み解く、Excel魔導士への第一歩を踏み出したのだった。
【修行】セルとセルをつなぐ“契約陣”
「この列と、この列……“つながっていない”のか?」
田辺はうなるように言った。
前にあるのは、部署で共有されている日報フォーマット。
一見すると整っているが、よく見れば無数の手入力とコピペの痕跡。
――そのたびに生じるミス。
――そして、それを訂正するために消える時間。
「ふふ……ならば繋げてやろう。このセルと、このセルを、“契約”で!」
田辺の目に閃きが宿る。
すでに彼の脳内では、VLOOKUPが“精霊召喚”のように映っていた。
検索値という触媒を使い、他の表から情報を引き出す――
それはまさに、“次元を越えて情報を召喚する術”。
「参照元、見つけたり……検索対象、発動せよ!」
Enterキーを押す。
一瞬の静寂ののち、セルに値が現れた。
まるで契約を果たした使い魔が、忠実に姿を現すように。
「バカか、おまえは……」
声の主は、久賀パイセンだった。腕組みし、呆れたように笑っている。
「そのVLOOKUPの書き方、式としては正解だ。でもな、参照範囲が固定されてない。F4で絶対参照にしなきゃ、契約陣が暴走するぞ」
「……暴走?」
「たとえば行をコピペしたら、参照先がズレて“違うモノ”が召喚される。つまり、お前が望まぬ召喚事故が起こるってこった」
「なるほど、“召喚の制御装置”か……!」
感心したように頷く田辺。
久賀は苦笑しながら、さらに関数の応用を教え込んでいく。
「IF関数は、“分岐条件付き詠唱”。」
「INDEX+MATCHは、“特定条件下での座標指定転移魔法”。」
「ピボットテーブルは、“集計による構造変換の陣式”だ。」
まるで魔導書を紐解くかのように、田辺は関数の数々を吸収していった。
やがて、彼のExcelファイルは“静かなる魔術書”のようになっていく。
ボタンひとつで数字が踊り、シートが答えを返す。
かつて30分かかっていた作業が、今や10秒で終わる。
「ま、まあ……田辺さん。なんか、もう帰っていいっすよ……」
周囲の同僚がそう口にしたのも、無理はない。
「……帰って、いい?」
「ええ、いや、むしろ、まだいるんですか?」
「いや……“帰る”って、どうやるんだったっけ?」
田辺の魔導士としての旅は、いまや業務効率化という“異世界”の扉をこじ開けたばかりだった――。
【転換】“帰っていいっすよ”の衝撃
定時一時間前。いつもなら、田辺は今頃、額に脂と疲労の汗をにじませながら「地獄の手打ちレポート」をこしらえているはずだった。
数字を集め、表にまとめ、前週との差異を記述し、棒グラフと円グラフで上司が“それっぽく”理解できるように飾り立てる――それが、この部署における“社畜魔術師”の儀式だった。
しかし今日、田辺の指はマウスを一度、軽くクリックしただけだった。
「──召喚完了、っと」
画面上では、昨日まで彼を苦しめていた三時間分の作業が、まるで自動筆記機のごとく流麗に、正確に、静かに、再現されていく。
グラフが形成され、数式が反応し、報告書ファイルがデスクトップに静かに現れる。
──所要時間、十五秒。
しん……と静まり返るオフィスに、後輩・望月が声を漏らす。
「……田辺さん、なんかもう、今日、帰ってよくないっすか?」
その言葉は、田辺の心臓に妙な形で突き刺さった。
(な、なんだこの感覚は……)
これまでの努力が、汗と涙と徹夜で積み重ねた時間が、今──
「帰っていいっすよ」の一言で、やさしく断ち切られる。
田辺はゆっくりと椅子に背を預け、天井を見上げた。
「……敗北感……いや、違う……これは……勝利だ……!」
拳をゆっくり握りしめる。
“社畜魔術体系”の一端を極めた者にだけ与えられる、**「労働からの解放」**という報酬。
それはまぎれもなく、呪縛の鎖を一つ砕いた証だった。
「ふっ……この世界、まだ捨てたもんじゃないな」
その瞬間、田辺の背後で小さな“エクセルの風”が吹いたような気がした。
【結末】「魔術は、人を自由にする」
その日は、なにかが違っていた。
定時を20分残したオフィスで、田辺のPCモニターが静かに点滅する。マクロの進行を示すプログレスバーは、滑らかに、淀みなく、そして美しく完了の頂点へと到達した。
「……完了しました」
思わず漏れた呟きに、背後の誰かが驚いたように振り返る。
「え、もう? あの3時間のレポート、終わったんすか?」
「はい。ボタン一つで、15秒です」
静まり返るオフィス。数秒の沈黙のあと、誰かがポツリと呟いた。
「……田辺さん、なんかもう、今日帰ってよくないっすか?」
笑い半分、でも本気だった。
そして田辺自身、その言葉に戸惑っていた。
――帰って、いい?
仕事が、終わったから?
この俺が、業務時間内に……!
複雑な思いが胸を渦巻く。
虚無、安堵、解放感、そして……敗北感?
「……なんだ、この感情は……」
呟きながら、田辺はゆっくりと椅子から立ち上がった。背後の席では、久賀パイセンがニヤリと笑っている。
「それが“社畜の檻”の鍵だ、田辺。おまえは今、自分で錠を開けたんだよ」
出口へと歩く田辺の背に、ふと、誰かがぽつりと呟いた。
「……いいな、魔法って」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
この冷えきった職場で、誰かが、たしかに憧れた。
“魔法”という、非常識な力に。
(ほんのわずかだが……この魔術が、いつかこの世界を変えるかもしれない)
田辺は、胸ポケットに収めた「関数辞典」をそっとなぞる。久賀パイセンから譲られた、いわば“魔導書の原典”だ。
そして、手には自作の“魔導書”。かつて無意味にしか見えなかった業務の山が、いまでは一つひとつ、式と式でつながった秩序に思える。
宵のビル街に、風が吹く。
田辺の心にも、確かに風が吹いた。
魔術は、人を自由にする。
そしてその自由が、また誰かの希望となる。
田辺は、夕暮れのオフィスを背に、そっと歩き出した。