2章:第3話:社畜の掟、三原則 〜定時退社は裏切りの証〜
──この世界には、「明文化されぬ三原則」が存在する。
第一条、『定時に帰る者は、裏切り者と見なす』。
第二条、『有給は幻の魔法である』。
第三条、『笑顔で送り出し、魂を縛る』。
入社してしばらく経ったある日のこと。田辺貴義は、初めて「この世界の掟」に触れた。
定時、午後六時ちょうど。
オフィスにチャイムが鳴り響く。
「お、時間だな……今日はさすがに帰ろう。からあげも食いたいし」
そう思って立ち上がろうとした瞬間——。
「お先にどうぞ」
ぴたり、と音が止まった。
田辺の動作、呼吸、思考、すべてが凍る。
「……え?」
顔を上げると、周囲の社員たちが一斉にこちらを見ていた。
笑顔だ。完璧に整った、誰一人として欠けのない——“無表情の笑顔”。
「お先にどうぞ(帰れとは言ってない)」
「いいんですよ、私たちはまだ終わってませんから(あなたも、ね?)」
「ゆっくりしてください(どこにも行かせないけど)」
空気が変わった。
目には見えないが、そこには確かに結界が張られている。
「この言葉……魔力がある。“帰れ”とは言っていない。だが、誰も帰らせる気はない……!」
田辺は肌で感じた。これが“精神結界”だと。
人の心に作用し、自由を封じる闇の儀式。
かつて魔導の塔に存在したという、意思の拘束呪文。
──違う。これは“空気”という名の禁術だ。
田辺は席に戻る。無言でPCを開き、Excelを再起動した。
「……ああ、なるほど。“逃げる”という選択肢が、初めから封じられていたわけか」
その夜、近所のコンビニで買ったからあげをかじりながら、田辺は空を見上げた。
「この国では、“時間”が最も搾取される資源らしい」
まだ月は昇っていない。
定時退社という夢は、幻の月光のように、彼方に揺れていた。
社畜の掟・第一条「帰らないこと」
──それは、誰もが知っていて、誰も明文化しないルールだった。
定時を知らせるチャイムが鳴っても、誰一人、席を立たない。
PCのタイピング音だけが、異様な静けさの中で響いていた。
「(あれは……合図ではなかったのか? 戦いの終わりを告げる鐘では……ない?)」
数日前、意を決して定時で立ち上がった新入社員の一人・宮内は、翌朝から雰囲気が一変していた。
席に戻ると、モニターに貼られた付箋。「報連相、足りてる?」
昼休み、周囲の席で囁かれる声。「あの子、ちょっと浮いてるよね」「チームで動くって意識、低くない?」
「(まるで……見えない結界だ。物理的な壁ではない。精神と評価の網で、逃げ道を塞いでくる……!)」
田辺は震えながら、手元のメモを開いた。
そこに、社内の不可視ルールを記していく。
社畜の掟・第一条『定時に帰るべからず』
※これを破った者は、組織の“自浄作用”により自然排除される。
「これが、この世界で生きる“貴族”……いや、“下級魔術師”の生存法則か……」
PCに向き直る。カーソルが瞬く。
“帰宅”という呪文は、まだ唱えられない。
──やがて、田辺の机に、謎のファイルが届く。「分析、頼むな」
そのファイル名は、《深夜残業_習熟度試験_ver.1》だった。
社畜の掟・第二条「休まないこと
──それは“存在しているのに、存在しない”禁忌の魔法だった。
「す、すみません。来月、有給を……一日だけ、申請したいんですけど」
田辺の声は震えていた。
部長・梶間の眉が、ぴくりと動く。
「……え? ああ、来月? うーん……」
梶間はスケジュールを開いたふりをする。だがそれは、**“儀式”**に過ぎない。
隣の課の名前をつぶやきながら、“情報障壁”を展開する。
「ちょうどその時期、向こうのチームも人足りなくてね。ほら、繁忙期だから。うん。繁忙期、だからね。」
「(一年中、繁忙期……!? なんて巧妙な時間操作系魔術……!)」
「(いや違う、これは“繁忙期”という言葉を固定化することで、時間の流れそのものを縛る結界だ……!)」
さらに追い打ちのように、別の声がかぶさってくる。
「あ、そういえば◯◯さんも、その週は有休で休む予定だったよね?」
「ってことは、こっちは調整つけなきゃだね。うん。できるよね? 調整。」
──申請は、通らなかった。
翌日、同期の坂井がいなくなっていた。
ひと月前、有給を希望していた彼女だ。
「……辞めたらしい。理由は、聞くな」
田辺は青ざめる。PCのメモ帳を開き、そっと打ち込んだ。
社畜の掟・第二条『有給は理論上の幻影である』
※申請の試みは、組織の魔術結界によって軟化・消滅される。
「これは……“形式上は自由”という、高度な幻想魔術……!」
──彼の背後で、コピー機が重低音のうなり声をあげる。
それは、次なる掟の目覚めの前兆だった。
社畜の掟・第三条「耐えることが、美徳とされる」
「いやー、俺もやったことあるわ。40度出しながら出社」
昼休憩、休憩室の片隅。カップ麺の湯気が立ち上る中で、先輩社員・篠崎の武勇伝がさらりと語られた。
「しかもさ、その日プレゼンだったから、途中で意識ちょっと飛んでたけど、なんとか乗り切ったよね〜」
「わかりますよ! 自分も、インフルっぽかったけど、一応マスクだけして来た日ありました!」
「それでいて一切文句言わない〇〇さん、ホント尊敬っす!」
――何を言っているのだ、この民たちは。
田辺・オブ・グランデール伯爵令息、脳内で顔を覆う。
伯爵家に生まれた彼の中には、ひとつの確固たる信条があった。
“具合の悪い者は、静養すべし”
これは人の尊厳に関わる問題である。体が資本、それを壊してまで働くのは、自他に対する背信ではないのか?
「……あの、それって……出社するほうが、逆に迷惑じゃ……」
田辺が勇気を出してつぶやくと、一瞬、空気がピタリと止まった。
篠崎が笑う。「はは、田辺くん、理屈はそうだけどさあ……社会ってそういうもんなんだよ」
笑いながらも、目が笑っていない。
「気持ちの問題だからね」「そうそう、気合いで乗り切るのがウチの文化だしな」
――文化!?
田辺の中で、雷鳴が轟いた。
これは、思想の違いではない。信仰のレベルである。
「……この国では、“時間”が最も搾取される資源らしい」
自席に戻る途中、ぽつりと独白が漏れる。
自らの時間、そして心身さえも、捧げて称えられる“耐える者”の美徳。まるでそれは、社畜教という宗教の教義にすら思えた。
「我が庶民王国、何ゆえこれほど時間に無頓着であれるのか……!」
彼の胸中で、貴族としての誇りが軋む。
“本当に、このまま流されていいのか”
夜。田辺はコンビニのレジ前で立ち止まり、唐揚げ棒を手に取る。
揚げ物の熱が、わずかに冷え始めた心を温める。
彼の脳裏には、決意の言葉が浮かんでいた。
――私は、貴族だ。時を捧げることは、忠誠ではなく、隷属だ。
】夜のコンビニ、からあげと決意
終電は、あと十数分で発車するらしい。
社から最寄りのコンビニまでの道すがら、田辺貴臣は、ただ風に吹かれていた。
「終わった……のか?」
脳内の処理キューはフルロード。瞼はしょぼしょぼ、胃袋は空洞。
それでも、どこか達成感などない。勝利とは呼べぬ帰還だった。
何をどれだけやっても“終わった感”が得られない国、それがここ――《庶民王国・日本株式会社》である。
「あの世界では……夜には宴と祝杯があった。
なぜこの国の夜は、こんなにも……ひもじいのだ……」
ふらつく足取りのまま、店内で一番温かそうなものを選ぶ。
「からあげ、温めますか?」という問いに、なぜか少しだけ泣きそうになる。
頷くことしかできなかった。
温められた紙袋を受け取り、田辺は外のベンチに腰を下ろした。
街路樹の陰、誰にも気づかれない静かな場所。
袋を開けると、ほわりと漂う香ばしさが、胸に沁みた。
「……こんなに冷たい夜風が……生きてるって感じさせるとはな」
からあげを一口かじる。
じゅわりと広がる脂の熱に、さっきまで冷え切っていた体が少しだけほぐれた。
けれど、心の奥底に燻るものは消えない。
無言の帰宅禁止ルール、有給は幻想、そして“耐える者が美徳”という歪んだ信仰。
「この国の社畜魔法陣……恐るべし」
だが。田辺の目に浮かぶのは、諦めでも逃避でもなかった。
ただ、密やかな決意の火。
「……だが、負けるわけにはいかない……この国の流儀に、抗う者として……」
ふたたびからあげをかじりながら、彼は静かに目を閉じる。
脳裏に描かれるのは、旧世界の魔導書ではなく、今手にしたノウハウと技術の数々。
業務の自動化、タスクの可視化、リモート会議の導入――
すなわち、この世界における“時間魔法”の実装計画。
小さく、だが確かに、それは始まっていた。
一人の貴族出身・新人社畜による、静かな“反抗”の物語が。