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2章:第2話:Excelの迷宮と魔導書の解読 〜条件分岐魔法《イフ》と召喚関数《ブイルックアップ》〜

魔導書との出会い


「田辺さん、初心者ならまずはここから。基礎魔法の詰まった初級書、ってところかな」


朝の光が差し込むオフィスの片隅。

朝倉ななは、少し気恥ずかしそうにしながらも、一冊の分厚い書物を差し出してきた。


その表紙にはこう記されていた。


『EXCEL関数リファレンス・オフィス魔法初級者向け』


……本、というより、まるで魔導書だった。


「こ、これは……」


田辺はそれを両手で受け取り、慎重にページをめくる。

そこには、意味不明な呪文のような言葉が整然と並んでいた。


「“SUMIF”……指定条件に一致する値のみを加算……」


その瞬間、田辺の脳内にビジョンが走った。

幾千ものデータの中から、条件に従い光り輝く数値たちが選ばれ、天へと舞い上がる――選定と融合の儀式。


「これは……選ばれし数を集め、ひとつの力に統合する……神聖な召集魔法!」


さらにページをめくる。


「“VLOOKUP”……べ、別のシートの……情報召喚?」


田辺の目が見開かれる。

隣のシートから、まるで異世界の記録を抜き出すように、目的の情報が現れる様は、まさしく“召喚”そのものだった。


「これは……他世界シートとの契約魔法……! 時空の壁を越えて、記憶を呼び寄せる異次元の術式!」


最後に、目に飛び込んできたのは――


「“IF”……これは、条件によって……世界線が分岐する……?」


田辺の中で、ふたつの未来が交錯した。

「もし売上が目標を超えたなら“成功”のルートへ、そうでなければ“再提出”の地獄へ――」


「これは……! 運命を左右する、分岐魔法……! 選択と結果が連鎖する、未来制御型の術!」


本を閉じ、田辺は静かに立ち上がった。


「Excel……これはただの表計算ソフトじゃない。これは……“力”だ。世界を動かす、魔法だ……!」


気づけば、ななはそんな田辺をぽかんと見つめていた。

が、すぐにふっと笑う。


「ふふっ……ようこそ、関数の世界へ」


田辺の社畜としての日々に、ひとつの異能が芽生えた瞬間だった。


魔術習得と暴走

――Excelの迷宮に挑む者が、最初に陥る罠。それは「動く表」に魅せられた者の、狂熱である。


田辺一真は、両目に宿る光をギラつかせながら、キーボードを打ちまくっていた。


「ここに……このSUMIFを入れて……いや違う、こっちがVLOOKUPで……ッ、ああもう! #REF!? またかよぉぉ!!」


エラーの赤い表示が、まるで魔術に失敗したときの呪詛のように彼を責め立てる。


「コピペして、また貼り付けて……おぉ! 動いた!? 動いたぞグラフが!!」


パチパチッと、表の数値に合わせて棒グラフが形を変えていく。

その様子は、まるで魔道具が持ち主に応えるかのようだった。


「これは……魔導のインターフェースが意思を持った!? そうか、私は今、表と対話しているんだ……!」


しかしその興奮も束の間。別のシートの関数が、沈黙していた。

動かない。どこをいじっても、式が息をしない。


「な、なんでだ……? さっきまで動いてたのに……あああ、もう頭がぐちゃぐちゃになる!」


SUMIFSの入れ子、IF文の中のVLOOKUP、参照元のまた参照元……迷宮は深く、そして冷たい。


精神の限界が迫る中、背後から小さな声が飛ぶ。


「田辺くん、それ……相対参照と絶対参照がずれてるよ」


振り向くと、朝倉ななが淡々とマウスを動かしていた。

その指先が、一つのセルを示す。


「ここ、$がないと参照先がズレちゃうよ」


「……そ、相対と絶対……?」


まるで天地が反転したかのような衝撃が走る。


「私は、“世界の基準”を、理解していなかった……!」


その瞬間、田辺の脳内に何かが開いた。


相対参照――流動する力。

絶対参照――固定された真理。


この二つを使い分けねば、Excel魔術は完成しない。


「ありがとう、なな氏……私は、もう一歩先へ行ける気がする!」


だが、このとき田辺はまだ知らなかった。

この“参照の扉”の向こうに、さらなる混沌――「複数条件の配列魔法」が待っていることを……。



戦いの代償

「できた……!」

田辺の声が、誰もいないフロアに静かに響く。


モニターには、セルが整然と並び、グラフが静かに主張している。売上の山と谷、達成率の色分け、関数の糸が張り巡らされた帳票――。確かに、それは「それっぽい」ものだった。いや、彼にとっては、魔術陣そのもの。


ふっと椅子にもたれ、天井を見上げる。だが、そのとき。


──シン……。


静まり返ったオフィス。

壁の時計が、無慈悲に19時を指していた。


「……また、時間魔法は未実装か」


ポツリとこぼした言葉に、誰も答えない。


昼食を忘れ、コーヒーだけで乗り切った魔術習得の代償。脳は熱を持ち、視界は霞む。


それでも、田辺の目はどこか晴れやかだった。


「でも……確かに、召喚できた。数字の、意味を」


かつては呪文の羅列にしか見えなかったそれが、今では彼に語りかけてくる。

「売上不振は、東北支店」「前年同月比、△14%」


魔導士エクセリストとしての、最初の勝利。

代償は大きいが――それに見合う力を、田辺は手にし始めていた。


夜。部屋の明かりだけが、世界と彼を繋いでいた。

使い古されたノートの表紙には、かすかに「日報」と読める文字。


田辺はそれを開き、黒インクのペンを走らせる。


今日、私は“魔導書”を読んだ。

条件分岐、値の召喚、束ねられた加算。


指が震える。今日何度Enterキーを押したかもわからない。

心と時間をすり減らしながら手に入れたのは、たかが帳票。されど魔法。


だが、この世界に“時間を操る魔法”は、まだ存在しない。


ふっと、笑みが漏れる。悔しさと誇らしさと、ほんの少しの寂しさ。

だが、確かに今日、ひとつの真理を得た。


田辺は最後の一文を、静かに記す。


魔術師とは、エクセルを使う者のことだったのだな……


ページを閉じたそのとき、彼の背後で、パソコンのモニターが小さく光を放った。

まだ知らぬ魔法の呼び声が、彼を待っている。


──明日もまた、魔導の書を開くときが来る。


日記と魔術師の覚醒

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