第1章:目覚めよ、哀しき係長【結】「我こそは、庶民王国の貴族なり」
一日の戦いを終え、エレノーラ・フォン・シュヴァルツシルトは、庶民王国の一角に借りた“下賜住宅”(ワンルーム賃貸マンション)へと帰還していた。
玄関を開け、革靴を脱ぎ、玄関マットに足を乗せた瞬間──彼女は低く、だが誇らしげに呟いた。
「……本日も、よく生き延びたものね」
その声音には、かの大戦を駆け抜けた女将軍の風格があったが、スーツの袖はインクと汗で若干くたびれている。とはいえ、戦場とはそういうものだ。
スカートをひるがえし、エレノーラは脱衣所へ向かう。そして蛇口をひねり、湯船にぬるめの湯を張ると、ため息とともに身を沈めた。
「このぬるき湯……地獄よりは、はるかにましね」
目を閉じれば、今日一日が脳裏を駆け巡る。職場という名の戦場、数字と語句の剣戟、時間という名の魔物、そして……あの、唐揚げ弁当の祝福。
湯上がり、部屋の明かりは柔らかな電球色。エレノーラはソファに沈み込み、スマートフォンという“庶民の魔導記録機”を手に取った。
「さて……」
彼女が開いたのは、“日記”という名の記録アプリ。指先で文字を綴りながら、彼女は静かに、だがどこか凛々しく微笑んだ。
《本日より、庶民王国にて第二の人生を歩む》
《この国の制度は不可解だが、礼儀と知略で征してみせよう》
《よって、まずは“定時退社”を目指す》
入力を終えたエレノーラは、ふ、と笑った。
剣も魔法もない世界。だがこの国にも、誇りと策略を尽くす価値はある。
“社畜”なる職業がいかに過酷であろうとも、エレノーラ・フォン・シュヴァルツシルトは、誓う。
己が矜持と、矛盾を貫き通す知恵を持って。
「ふふっ……我こそは、庶民王国の貴族なり」
今日もまた、月は窓辺に浮かんでいた。