第1章:目覚めよ、哀しき係長【転】第一の敵、“報告書”を討て
シーン1:朝礼と“偽善の宮廷儀礼”
始業のチャイムが鳴り終わる頃、田辺――いや、今は“エレノーラ・フォン・グランツ”は、社員たちに倣って机を離れ、フロア中央へと向かった。
そこには整然と並ぶ者たちの列。背筋を正し、誰一人として口を利かず、目だけを死んだように前へ向けていた。彼らの視線の先に立つのは、一人の男――部長、西園寺である。
「今日も一丸となって、効率と数字を意識し、最大限のパフォーマンスを発揮しましょう。以上」
ただそれだけの短い演説。しかし、抑揚のない声と乾いた目が、まるで“それすらどうでもいい”と物語っている。
(……これは……これはまさしく……)
エレノーラの瞳が揺れた。魔導貴族の血を引く彼女は、遠き王国で幾度も“腐った宮廷”を目の当たりにしてきた。民に寄り添わず、儀礼ばかりを重んじ、魂のこもらぬ言葉を吐く――そのような貴族たちの姿を。
(……民の心なき、偽善の宮廷儀礼……!)
彼女の脳裏に、イメージが重なる。
西園寺部長の背後には、幻の玉座が浮かび上がる。豪奢な衣装に身を包み、威厳なきまま王の代理として振る舞う“宰相”の姿。
そして並ぶ社員たちは、口もなく思考も奪われた“民草”。否、これは支配だ。静かなる圧政だ。
(この者が……この世界における“王侯”なのか……腐っている……!)
まるで何か重大な陰謀を暴いたかのように、エレノーラは内心でそう呟いた。
ただの朝礼である。
それでも彼女の中では、いまやこの空間が“謀略うずまく王国の玉座の間”と化していた。
隣で欠伸していた朝倉ななも、まさか自分の隣の係長が“中世ファンタジー的脳内劇場”を展開しているなど、知る由もなかった――。
■シーン2:与えられし“試練”──報告書作成
「田辺さん、これ、昨日の会議のまとめお願いしまーす!」
明るい声とともに、朝倉ななという小柄な女性が、紙束とUSBメモリを手渡してきた。
彼女の笑顔は悪意など微塵も感じさせないが、その手に握られたものは――エレノーラには、そう見えた。
(これは……魔術書!?)
いや、違う。ただの社内報告書の作成依頼である。
だが、開かれたWordの文書には、謎のレイアウトと謎のフォント。
Excelファイルには意味不明な関数と色とりどりのセル装飾が施され、何かの呪式陣のようにも見える。
「なにこれ……“秘術書”でも読ませるつもりなの……?」
エレノーラの中で、過去の記憶と現代の情報がぶつかり合い、混乱が起き始めていた。
“グラフ”という言葉に“貴族の血統表”を思い浮かべ、
“サマリー”という単語に“古の精霊の名”を感じ取り、
“ピボットテーブル”には“召喚術式”の気配すら感じる。
これは――暗号文だ。業務魔術の巻物……!
呼吸が浅くなり、頭がクラクラしてくるそのときだった。
(落ち着け……私は田辺健一。サラリーマン歴5年、社畜Lv.47……)
――ふいに蘇る、田辺健一の記憶。
(“箇条書き”……それは、敵軍の布陣を記した“戦況報告”と同じ……!)
(“表形式”……これは、国務文官試験で鍛えた筆記魔術……!)
ふぅ、と深く息を吐き、彼女は椅子に腰を据えた。
「……なるほど。これが、この世界の“行政魔術”というわけね」
一本指でキーを打ち始める。たどたどしくも、着実に。
文章をまとめ、表を整え、時折Ctrl+Zという魔法で失敗を巻き戻す。
やがて画面には、整ったレイアウトと、妙に美しい余白の社内報告書が完成していた。
完璧すぎるがゆえに、後に小林からこう言われることとなる。
「なんでこんなに……無駄にレイアウトきれいなんですか……?」
だが、エレノーラは気づいていない。
その“余白”こそが、かつての王国で**公文書に刻まれた“美学”**をなぞっていたことを――。
シーン3:貴族流・報告書の完成
「……っ、なぜここで“装飾枠”が出てくるのだ!?」
田辺エレノーラの前に広がるのは、謎の魔導書と化したWord画面。
カーソルひとつで行間が伸び、Enterキーを押すたびにページが跳ね、謎の“目次機能”が自動生成される。
「これは……ただの記録ではない。構文が自律進化している……!?」
異世界では“文官試験”を首席で通過したエレノーラ様だが、日本企業のOfficeソフトは魔導の書よりも難解だった。
ふと、間違って選択したフォントが“明朝”から“金色フレーム付きの特殊効果”へ。
「おおっ……この装飾……まるで王家の印章……!」
気づけば、全ページに唐草模様の縁取りと詠唱風サブタイトルが。
◇第一章:市場に潜む影
― 会議資料集(第十四回 業務方針調整会議より)
◇第二章:予算調整という名の戦場
― エルフ語のような数字の列(予実比較)
エレノーラは満足げに頷いた。
「うむ、民に伝えるにはこれくらいの“威厳”が必要だ。余計な簡素さは誤解を生む」
プリントアウトされた10ページにわたる報告書は、まるで異世界ファンタジーの設定資料集。
それを見た小林が、無言で3秒停止。
「……お前、何この中二仕様?」
「っ……!? これは、企業戦における“文の構え”だ! 私は“最善”を尽くしたのだぞ!!」
「無駄にレイアウトきれいすぎるし、章立ての意味も不明だし……てか金色って何……?」
「っ……黄金とは、王の色……!」
こうして、“第一の敵”報告書との戦いは、波乱の幕開けを告げたのである。
シーン4:初・昼休み、王国超えの宴
「田辺さん、今日お昼どうします?」
隣のデスクから顔を出した朝倉ななが、笑顔で声をかけてきた。エレノーラ=フォン=リーストリッツェン(元・田辺健一)はその問いに、わずかに目を見張る。
「……昼?」
「はい、コンビニ行きましょうよ。あ、田辺さん、今日は奢りますんで。歓迎の意味も込めて!」
その言葉に、エレノーラは思わず口元を引き結んだ。
(民の心を得る術……もてなしとは、こうも温かいものか……)
──こうして向かった初めての「コンビニ」。
中に入った瞬間、彼女は小さく息をのんだ。
「なんと……! 小さき空間に、食材・飲料・日用雑貨が一堂に会するとは……この国の物流は魔導に依るのか……!?」
「え、ええと、唐揚げ弁当とかありますけど……」
朝倉の言葉を聞きながら、エレノーラの視線は一点に吸い寄せられた。
――それは、黄金色に輝く唐揚げが主役の弁当。ラベルには「398円」の文字。
(この煌めき……“太陽の鶏”を想起させる……王宮の食卓と同等、いや……それ以上かも!?)
彼女は震える手で唐揚げ弁当を手に取り、レジで購入した。
──そして、会社に戻り、机の上で開封。
蓋を外した瞬間、ふわりと香る油とスパイスの匂いに、彼女は戦慄した。
「っ……この香りは……誘うな……我が魂までも!」
勇気を振り絞って、ひとつを箸でつまみ、口へと運ぶ。
その瞬間――
「な、なんという芳醇なる味わい……!」
口内で肉汁があふれ、スパイスが踊る。衣のカリッとした歯応えに続き、ジューシーな鶏肉の旨味が押し寄せる。
「これは……王国の祝宴をも凌駕している……ッッ!!」
目に涙を浮かべ、天を仰ぐエレノーラ。
その姿に、周囲の社員たちがざわついた。
「……田辺さん、泣いてる?」
「何? 弁当で感動って……」
だが、エレノーラはひとり、満たされた心で呟いた。
「これが……庶民の魔導食か……この国には、まだ……希望がある」
その言葉を聞き取った者はいなかったが、たしかにそこには一人、“真剣に弁当と向き合う者”がいた。
――こうして、彼女の中の「日本の食文化」への信頼と尊敬は、静かに芽吹いていったのだった。