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第1章:目覚めよ、哀しき係長【承】「社畜界、いざ参る」

シーン1:文明の洗礼、駅の魔道門(改札)

「……遅刻? なにそれ、騎士団の朝練か何かかしら……?」


田辺健一の姿をしたエレノーラ・フォン・グランツは、スマートフォンの“カレンダー”なる魔道書を確認しながら、半ばよろめきつつ駅へと走っていた。表示された“電車の発車時刻”まで、あと数分。


「なんでこんなに急かされるの……平民の朝は過酷すぎる……」


荒い息をつきながらようやく駅に辿り着いた彼女の前に、今度は“魔道門”が立ちはだかる。


ガラスと金属でできた柱の間には、何の仕切りもない。ただ、人々はその間をすいすいと通り抜けていく。時おり、“ピッ”という高音が鳴るたび、柱の先にある棒のようなものが開いては閉じる。


「また……新たな魔道具……?」


彼女――いや、彼――は思わず足を止めた。


その瞬間だった。


「チッ……おっせーな」


背後から舌打ち。すぐさま、肩をぐいっと押される。


「きゃっ……!」


よろけながらも、咄嗟に構える。だが剣も魔力もない。あるのは、謎の黒い鞄と、今しがた“魔道書”として認識したスマートフォンのみ。


「この国の民度は……思ったより荒れているわね」


ぐっと唇を噛み、もう一度“魔道門”へ目を向ける。誰もが小さな四角い板をかざして、音を鳴らして通り抜けている。それが――通行許可の儀式らしい。


「ふむ……ならば、私も……!」


意を決して、右手にスマホ(らしきもの)を持ち、恐る恐るかざす。


「ピッ」


「ひゃっ……!?」


思わず肩をすくめる。


「い、今の音で……許可されたの!?」


棒が開いた。道が拓けた。


魔道門を通過した瞬間、彼女は少しだけ胸を張る。


「ふふ……この程度、グランツ家の者として当然のこと……!」


しかし、その誇らしげな笑みも、改札を抜けた瞬間、眼前に現れた“鉄の蛇(電車)”を見て消し飛んだ。


シーン2:動く牢獄、通勤列車

 改札の音に驚いたのも束の間、エレノーラ――いや、田辺健一たなべ・けんいちはスマートフォンの画面に表示された時刻を見て、顔面蒼白となった。


 「まずい、あの鉄の馬――"電車"とやらに乗らねば!」


 駆け出すその姿は、どう見ても寝坊したサラリーマンだが、本人の脳内は騎士団の突撃戦術と同じくらい深刻だった。


 駅のホームには人、人、人。まるで避難民の列だ。

 

 轟音を立てて滑り込んでくる車体。その銀色の巨躯に、彼女――彼はわずかに身構える。


 「開いた……っ!」

 車両の扉が無慈悲に口を開けた瞬間、波のように乗客が押し寄せてきた。


 逃げ場は、ない。


 「こ、これは――拷問……っ!」


 鉄と肉と布とが混然一体となって襲いかかる。無数の肘が肋骨に食い込み、知らない誰かの鞄が股間を襲う。体温と、呼気と、香水と、わずかに混じる朝食の名残が、この空間に地獄を構築していた。


 「まるで……まるで魔物の胃袋の中じゃないの」


 辛うじて空中に浮いている吊革に手を伸ばし、彼女は呟いた。


 「重心を取れ……騎士団式姿勢制御術・応用型……!」


 ガタン。ゴトン。振動の波状攻撃が続く中で、田辺は片足をわずかにずらし、重心を分散、膝をしなやかに弾ませる。元貴族の平衡感覚が奇跡的に通勤戦争で発動する瞬間だった。


 だが、前からはスーツ姿の男の呼気、後ろからはリュックサックの突撃、横からは学生のイヤホン音漏れ。音も、においも、空気も、すべてが侵略してくる。


 「心を乱すな。これは試練。舞踏会だってこういう時があった……」


 パーティ会場で王太子と婚約者が喧嘩を始めたときの、あの張りつめた空気を思い出す。


 「宮廷舞踏会よりはマシ。貴族の立ち振る舞いを保て、私……!」


 すし詰めの車内、吊革一本にすべてを託しながら、元貴族はいま、サラリーマンとしての誇りと共に戦っていた。


シーン3:社畜の戦場、営業戦略部

高層ビルの谷間にひっそりとそびえる、無機質な鋼鉄の塔。

その足元で、エレノーラ=田辺健一は、震える指で一枚の札――社員証――をかざした。


「……これが、この国における“身分証”か」


ピ、と音がしてガラスの扉が勝手に開く。

風もないのに髪が揺れたのは、彼女の心の動揺のせいだった。


(まただ……魔道も使っていないのに、自動で動く扉……。この国はどこまで魔導文明が進んでいるの!?)


だが、怯えている場合ではない。

この身はもう“田辺健一”。

ひとたび仮面を被ったなら、王族の誇りも、騎士の矜持も脱ぎ捨て、ただの「社畜」になるしかない。


「“田辺健一”として振る舞うのだ……この戦場で、生き抜くために」


震える息を押し殺して、銀の扉をくぐる。

そこに広がっていたのは、まさに――社畜の戦場。


蛍光灯の光が鈍く煌めく部屋。壁には一切の装飾もなく、魂を吸い取るようなグレイのカーペットが一面に敷かれている。

ずらりと並んだ謎の“電子魔導書”(PC)と、その前で沈黙を貫く民たち。

彼らの眼差しは死んでおり、笑顔一つなく、ひたすらに“作業”と呼ばれる儀式に没頭していた。


(魔術も……剣も……笑顔すらない……)

(ここは……陰鬱な戦場……!)


カタカタ、カタカタ。

指が打つ音だけが響き渡るその空間で、彼女――エレノーラ=田辺健一は、背筋を伸ばした。


「ここが私の、最初の戦場。……ならば、私は戦士であるべきだ」


そして彼女は席に着いた。

名札に書かれた“田辺健一”の文字が、運命を告げているかのように、冷たく煌めいた。



シーン4:ギャル系新人・朝倉ななとの邂逅

──異界にて、初めて心を通わせた者との出会い


「おはよっす、田辺さんっすよね? 新人の朝倉ななですぅ」


唐突に、隣の席から声が飛んできた。

明るく、高い声。軽やかで、どこか跳ねるような語尾。

エレノーラ=田辺は、その金色に近い明るい髪を結い上げた娘に、そっと視線を向けた。


まぶしい……!

まるで陽光そのものが形を得て、人の姿をとったかのよう。


──貴族としての礼節を忘れてはならぬ。


背筋を正し、胸元で手を重ねて、優雅に一礼。


「おはようございます、朝倉殿。田辺……健一です。以後、お見知りおきを」


「お見知りおきを……って、え、なんか……めっちゃ高貴……?」


朝倉ななは、ぱちくりとまばたきをした。

その視線は、まるで王宮舞踏会で初めて真の騎士を見た少女のように、驚きと敬意に満ちていた。


エレノーラはその視線に、うっすらと眉をひそめた。


(……睨まれている……!? なぜだ? 先ほどの作法に何か不備があったのか……?)


朝倉ななのネイルが光を反射してきらめくのを見て、エレノーラの警戒心がさらに高まる。


(この世界の娘たちは、爪にまで魔力を込めるのか……やはり、油断ならない)


一方で朝倉は、隣の席に座る“ただの中年男性”から放たれる気品に、どこか居心地の悪さを感じていた。


「……え、てか、なんかこの人……本当に田辺さん?てか、貴族出身とかだったりする……?」


思わずそんな言葉が口をつきそうになって、あわてて口を引き結ぶ。

彼の“空気の纏い方”が、あまりにこのフロアの他の人間たちと異なりすぎていた。


そしてエレノーラ=田辺は、静かに心に誓う。


(いずれにせよ、ここで私は“田辺健一”として生きると決めた。この娘の好奇の目などに、心乱されてはならぬ)


“異界の社畜戦場”において、思わぬ邂逅が、静かに幕を開けた。


シーン5:静かなる適応

静寂が支配する戦場――営業戦略部。

貴族令嬢エレノーラ・フォン・グランツ(中身は係長・田辺健一)は、パソコンに向かう兵士たち(社員)を前に、戦慄していた。


「こ、これは……“業務魔法”の訓練……?」


巨大な黒いモニターに光が灯り、人々は魔道書のような端末キーボードを叩き、次々と指令を発している。時折、小さな黒い箱(電話)を取って口元に当てると、低く呪文のような言葉を呟く。


「報告書、承認、進捗確認……くっ、何を言っているのか全くわからない……!」


だが、田辺健一の記憶が――薄っすらとした過去の霧の中から――彼女を導いた。


「コピーを……頼まれた、か」


“コピー”とはこの世界の召喚術の一種であり、文書の複製を一瞬で成すという、恐るべき技術であるらしい。

エレノーラは震える指で紙束を掴み、社内でもとりわけ異様な光を放つ大きな“祭壇”へと歩み寄る。そこには様々な紋章ボタンが浮かび、威圧的な沈黙を守っていた。


「これが……コピー機……!」


ふぉぉぉぉぉぉぉん……。


「なっ……!? 今、召喚儀式が始まったのっ!?」


静寂の中、機械が唸り、内部で何かが蠢く気配を感じる。

それはまるで、魂を吸い上げ、紙に新たな命を吹き込む神の機構――。


「す、すごい……“写し紙の精霊”が、完璧に文を写して……!」


震える手で紙を取り出したエレノーラは、その出来栄えに思わず見とれる。


「――ふん。私はグランツ家の令嬢。これしきの試練……乗り越えてみせる」


気高きその眼差しは、社内最弱戦力から一歩進んだ“コピー担当見習い”へと成長していた。

小さな適応は、やがて大きな波となる。

異世界からやってきた彼女の“社畜化”は、今、静かに始まったのである――。


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