選べ、どちらの世界を生きるか ――おっさんの中にいる悪役令嬢、ようやく自由に笑う
「帰還方法、判明」
「……田辺主任。今、お時間よろしいですか?」
昼休み直前、部署全体にちょっとした緩みが広がり始めたタイミングで、神楽坂美月がそっと声をかけてきた。
その声音は、珍しく張り詰めていた。
「ちょうどいい。俺も少し、話がしたかったところだ」
田辺健一――いや、“彼女”の中に眠るもう一つの意識が、静かに揺れる。
応接室に通された瞬間、目に飛び込んできたのは、分厚い研究レポートと、モニターに映し出された不気味な数式の羅列。そして──ひとつの、名前。
『転移理論・意識接続型時空制御プロトコル』
「……こいつは、何の冗談だ?」
「冗談ではありません。先日、某研究所から流出した機密データの断片を、独自に再構成したものです」
神楽坂が、指先で資料の一部を指す。
「この装置が示す理論上の可能性。それは──あなたが、**“もう一度、エレノーラ・フォン・グランディエールとして生き直すことができる”**という事実です」
田辺は、しばらく沈黙した。
目を閉じ、耳を澄ます。
自分の内側にいる“彼女”が、かすかに震えている気がした。
懐かしい光、重厚な絨毯、琥珀色の紅茶。
あの世界の空気が、記憶の奥から立ち上ってくる。
「だが、ひとつだけ……問題があります」
神楽坂が、口調をさらに低くする。
「もしこの方法で“帰還”すれば……この世界のあなたは、完全に消滅する可能性がある」
「……つまり、“田辺健一”としての俺は、もう戻ってこられない」
「はい。どちらか一つを選ぶしかありません。ここに残るか、向こうへ戻るか」
選択肢は二つ。
ひとつは、かつての自分を取り戻す道。
もうひとつは、地味で疲れるが、たまに唐揚げがうまい社畜ライフ。
どちらも、捨てがたい。
どちらも、確かに“彼女”の一部だった。
──さて。
“エレノーラ・フォン・グランディエール”としての誇りを貫くか、
“田辺健一”としての関係を守るか。
「……これは、困ったな。社食の唐揚げとあの子の笑顔、どっちもわりと、俺にとっては“王冠”なんだが」
とぼけるように、田辺は呟いた。
だがその目は、もう迷っていなかった。
異世界に帰還する方法が、とうとう見つかった。
研究開発部の変人・三神主任が、深夜の社内メールで送りつけてきたのだ。
【重要】異世界の座標について
データを添付します。
心当たりがあるなら、試す価値はあるでしょう。
p.s. おまえ、たぶんこっちの人間じゃないよな?
画面の中で点滅する「帰れる」という選択肢に、田辺健一は黙り込んだ。
もう一度“エレノーラ”として生きるか?
貴族令嬢の威厳と美貌、魔法の才能、名門家系の血――
あの世界では、彼は“特別な存在”だった。
だが、それでも、今――この世界での日々が、頭を離れなかった。
*
朝。
オフィスのエントランスを通るたび、ぺこりと小さくお辞儀をしてくれる新人・村上。
「おはようございますっ、田辺主任!」
元気だけが取り柄のようなその声が、なぜか耳に残る。
昼。
営業課の山本からもらった取引先のお菓子。
「主任にはこれっすよ。あの紅茶にも合いそうなんで」
わざわざ持ってきてくれる気遣いが、妙に嬉しい。
そして月曜。
社食の唐揚げ定食。
「田辺主任、今日“例の唐揚げ”ですよ!」
庶務課の鈴木が、楽しそうに報告してくる。
彼女の笑顔が、心にぽつんと明かりを灯す。
――おかしいな。
かつてエレノーラだった頃。
自分は他人の顔色も、庶民の営みも、ただの“背景”としか思っていなかった。
こんな小さなことで、幸福を感じることなど、一度たりともなかったはずなのに。
気づけば、ふとした瞬間に、彼――いや、“彼女”は、笑っていた。
心から。
どこまでも自由に。
貴族であった自分が知らなかった、生の手触りのようなものが、今の暮らしにはあった。
*
「戻らないのか?」と、三神が問う。
「本物の“おまえ”がいた場所に」
田辺はゆっくりと首を振った。
「すまんが……こっちの唐揚げと、あの子の笑顔、どっちも捨てがたい」
三神が絶句する。
「いやいやいや、判断基準おかしいだろ」
「そうか?」と、田辺は笑った。
「俺はもう――この“庶民王国”で生きていくと決めたんだよ」
「王になる」と心の中でつぶやく。
“悪役令嬢”ではなく、
“社畜主任”でもなく、
この人生を、誇りとともに歩む「王」に。
――エレノーラの微笑み、田辺の覚悟
オフィスビルの屋上。
夕焼けが、くたびれたビルの外壁を金色に染めている。
風が吹き抜ける中、田辺の前に立つのは神楽坂――元・エレノーラの世界において「賢者」と呼ばれた男であり、この世界での転生管理者だ。
「決まりましたか?」
神楽坂はスーツのポケットから、何かの札のようなものを取り出す。
「戻るか、残るか。二つに一つです」
田辺は、手にしたお茶の缶を見つめる。ぬるくなった緑茶。その味も、今はなんだか悪くない。
エレノーラとしての記憶、誇り、魔法、栄光の宮廷。
そして田辺としての日々――朝のあいさつ。仕事の合間に差し入れられる饅頭。
月曜だけの唐揚げ定食。
ささやかで、でも確かにあたたかい時間。
「……エレノーラとしての誇りも、過去も、確かに大事だった」
田辺は一歩、神楽坂に近づき、真っ直ぐに目を見る。
「でも、今の俺にはもう一つ、大事なものがある」
風が吹き抜け、田辺の髪を揺らす。
「――社食の唐揚げと、あの子の笑顔、どちらも捨て難いので」
「こちらの世界で王になる!」
しん、と風の音だけが残る。
そして、神楽坂はふっと微笑んだ。
「……ふふ。相変わらず破天荒な方ですね」
「ええ、王としてふさわしい職場、用意しておきます」
その瞬間、田辺のスマホが震えた。
画面に浮かぶ、社内システムからの通知。
件名:【異動通知】
本日付で、田辺主任を「特命室長」に任命いたします。
配属先:社長直下プロジェクト推進本部 特命室
「……特命、室長?」
田辺は絶句する。
だがその顔は、どこか誇らしげで――
遠い昔、異世界で王女として世界を渡り歩いた女の顔にも似ていた。
章末ナレーション
「選ぶということは、どちらかを捨てることではない。
どちらも抱きしめて、新しい道を自らの手で切り拓くことだ――」
その日、田辺健一という一人のサラリーマンであり、かつての悪役令嬢エレノーラは、
“二つの世界の王”として、新たな物語の一歩を踏み出した。
エピローグ:新人研修で語られる「田辺健一伝説」
研修室の壁には、彼の言葉が刻まれている。
「貴族の精神とは、誇り高く、己を律し、そして仲間を想うことだ。
彼は今も、変わらずその胸にそれを宿し、静かに定時退社という大海を目指している――」
その背中は、いつも未来を見つめている。
田辺健一、彼の物語はまだ、終わらない。