社内抗争、そして異世界とのつながり
① 社内に漂う火薬の匂い
七月、梅雨明け直前の重苦しい空気が社屋の中まで染み込んでいた。外は曇天。だが、それ以上にどんよりしていたのは、営業部と開発部の空気だった。
「……今月の予算案、見ました? あれ完全に営業優遇ですよ。ふざけてんのかって話ですよね」
「は? そっちこそ、リリースの遅延どんだけ出してんだよ。責任の所在、はっきりさせようじゃねえか」
社員食堂でも、会議室の外でも、どこかしこで火花が散っている。まるで、火薬に静かに火が点り始めているような危うさ。だが、役員会は「まあまあ」と曖昧に濁し、部長連中も互いに目をそらすだけだった。
そんな中――
「……どうしよう。これ、また派閥抗争が始まるやつだ……」
朝倉ななは、給湯室で紙コップに注いだお茶を手に、眉を寄せた。
この会社に入って3年目。すでに彼女の中には、**“社内政治レーダー”**が芽生えつつある。
“この感じ……いよいよ火蓋が落ちる……”
そんなときだった。
「朝倉くん、ちょっと聞きたいことがある」
すう、と背後から現れたのは、田辺健一だった。営業企画部の主任。地味で目立たず、愛想も薄いが――
「さっきの開発会議、誰が議事録取ってた?」
「えっ……あ、たしか中西さんが……」
田辺は小さく頷き、踵を返す。
その歩き方は静かだった。まるで戦場の空気を嗅ぎ分ける兵士のように、無駄な動きがない。
そして、振り返りもせず、ひと言だけつぶやいた。
「……貴族の内紛か。これは面倒だな」
「……え?」
朝倉は一瞬耳を疑った。貴族? 内紛?
田辺のそのつぶやきは、明らかに“異世界語”だった――
この会社の常識で、そんな表現は存在しない。
しかも彼の顔は真剣そのものだった。
まるで本当に、王宮の権謀術数を目の前にしたような表情で。
(田辺さん……あなた、もしかして……)
朝倉ななは、確信に近い違和感を覚えていた。
それは、「この人は地味なおじさんで済まされる存在じゃない」という、社畜の直感だった。
②:田辺、エレノーラ式“宮廷工作”を始める
「……まずは、利害関係者の洗い出しだな」
灰色のスーツに身を包み、田辺は静かに資料の山をめくっていく。その視線はまるで、膨大な情報という迷宮を精密に読み解く占星術師のようだった。
社内を揺るがす派閥争い──営業部の佐野部長派と、管理部の大迫マネージャー派。どちらも、定例報告の形式から会議資料のテンプレートにまで意地を張る始末。表向きは「業務改善」だが、実情はただの主導権争いだった。
そんな醜い内紛を、田辺は「貴族の派閥争い」と誤解していた。
(ふむ。どちらにも王族の後ろ盾がなく、均衡を崩せぬまま膠着している……ならば、“調停者”として動けば、両陣営を従わせることも可能か)
一息つき、田辺──否、エレノーラは書き込みを終えたリストをじっと見つめた。
「……密談を始めよう」
その日から、社内の空気が変わった。
昼休み、給湯室に呼び出される営業主任。帰り際のエレベーターで話しかけられる総務課長。会議前の廊下で立ち話する大迫派の若手社員。
すべてが、田辺の仕掛けた“布石”だった。
「部長の方針はよく理解してます。ただ……ここだけの話、あちら側にも一理あるんですよね」
「あ、いえいえ。佐野部長の意向が最優先ですとも。ただ、ひとつだけ確認を……」
「大迫さんの案って、実はこういう利点もあってですね。誰にも言ってませんけど」
──巧妙に、均衡を操作する。
誰にも味方せず、誰にも敵対せず。それでいて、双方の意志決定に“偶然のように”影響を与え続ける。
やがて、議題は曖昧な妥協案に落ち着いた。
表向きは「部門間の協調による改善」、だが実際には、すべての報告書・進行表に“田辺の名前”が入るようになっていた。
社内の声は、ざわめきから畏怖へと変わり始める。
「……田辺主任、マジで何者だよ」
「会議室で黙って座ってるだけなのに、空気がピリつくんだけど」
「裏で糸引いてんの、絶対あの人だろ」
──そして、誰もが口にするようになった。
「腹黒い……でも、あの人がいると、組織が動く」
田辺は、今日も黙って資料の山に向かう。
それが、彼──いや、“エレノーラ・フォン・グランディエール”の、仕事なのだから。
③:研究所の異端児・神楽坂教授が動く
――並行世界理論と社畜主任
総務部の一角。そこには「研究室」と呼ぶにはあまりに雑然とした、小さなスペースがあった。
無数の書籍、積まれたレポート、白衣の袖に染み込んだインク。
そして、部屋の中央でノートパソコンを叩くのは、白髪交じりの乱れた髪に無精髭――総務部付・特例研究職、神楽坂伊織。
彼は今日もまた、世間からズレた目線で世界を見ていた。
「ふむ……まただ。やはりおかしい」
神楽坂の目線の先には、部内カメラから切り出した田辺主任――いや、エレノーラ・フォン・グランディエールの画像が映っている。
「会議中の発言、抑揚のつけ方、ジェスチャー、相手の心理を操るあの間合い……あれは完全に、“社畜の流儀”じゃない」
指で画面を止め、タブレットに手書きメモを残す。
《事例023》
・昼食時に“サンドイッチの断面美”を無言で5分眺める→異世界貴族的感性?
・総務会議にて「陣形が悪い」と席順を変更→軍略的思考?
・部長同士の対立に「双方の名誉を保ちつつ妥結を図る」→貴族間仲裁の技能?
「これは――完全に異世界人の思考構造だ。いや、“魂”の転移だ」
神楽坂は立ち上がると、壁に貼られたフローチャートに赤いピンを刺す。
《異世界トランスファー仮説》
① 意識転移型人格変容(人格は別個体)
② 平行世界記憶同期(前世記憶の継承)
③ 精神的収斂(環境による同一進化)
→有力:①+②の混合型
「……この田辺健一という男。もはや確信に近い。“現世に転生した異世界の令嬢”だ。しかも――社畜として高適応している」
にやりと笑う神楽坂。狂気とも知性ともつかない笑みだった。
「いいぞ……面白くなってきた。異世界の魂よ、キミはこの世界に何をもたらすのか――私は見届けよう。観察者としてな!」
次の瞬間、彼は田辺のスケジュールをデスクに投影する。
「さて、“昼休みの動き”が一番怪しいんだ。今日はどこへ行く? 社食か、それとも――カフェ・フローラルか?」
彼の指が動くたび、田辺の“軌跡”が光点となって浮かび上がっていく。
――こうして、“異世界令嬢社畜主任”の秘密に最初に気づいた男が、密かに行動を開始する。
彼の名は神楽坂。変人にして天才、そして後に「転生研究の第一人者」と呼ばれることになる、異端の探究者だった。
④:田辺の過去と異世界記憶の交錯
――私は誰だ。エレノーラか、田辺健一か。
会議室の片隅。資料を抱えて無言で歩く田辺健一の脳裏に、かつての光景が蘇る。
金と赤のカーペット。銀の燭台。うごめく貴族たちの虚飾と嘘。
――そう、あれは《王国高等評議会》の折だった。
「エレノーラ様、貴女はもはや信用を失っておりますぞ。財務書簡に記された内容、確かにご署名が……」
「ええ、私の名で記されたのは間違いありませんわ。でも、記したのは……私ではありませんの」
「……なに?」
「文書の署名欄に、ミスをわざと紛れ込ませたのです。わたくしを陥れようとした者がいたとすれば――」
──策略に策略を重ねて、最終的に“敵”を討ち落としたあの宮廷戦争。
「……似てる。今と、あのときの構図が……あまりにも」
田辺は、コピー機のうなりに混じるような声で、ぽつりと呟く。
「俺はいったい、どっちなんだ……。エレノーラなのか、田辺健一なのか」
脳内で回る情報処理。政治的な動き、文脈の裏にある意図、見せかけの妥協と実利の掌握――
それは“田辺”の経験値を超えたものだ。だが、“エレノーラ”としてなら、当然の判断だった。
気づけば彼の目は、無意識に社内の“階級図”を描いていた。
課長――小侯爵。部長――伯爵。常務――宰相。
「……ああ、そうか。俺は……俺たちは、同じ戦場に立っているんだ。場所が違うだけで」
その瞬間、田辺健一の中で、“田辺”と“エレノーラ”がひとつに溶け合っていく。
――これが、統合された思考。
かつての王国でも、今の会社でも、「動かす」のは、言葉と関係と、一歩先の手だ。
そして、田辺は目を細める。
「次は、あの専務に“花を持たせる”タイミングか……。さて、どの駒を使おうか」
その顔は、もはや田辺健一ではなかった。
社畜でもなく、ただの転生者でもない。
――“知略の女公爵エレノーラ”の面影を、その目に宿していた。
“異世界の魂”との邂逅
都内某所、午後の会議室にて。
外は蝉の鳴き声がまだ続く真夏日。だが、室内の空気はひんやりと張り詰めていた。
田辺健一――主任職のその男は、いつもどおりの無表情で書類をめくっていた。だが、そこに――足音が静かに近づく。
「……田辺主任、ですね」
その声に、田辺はぴたりと手を止めた。
現れたのは、総務部付の特別調査官・神楽坂美月。研究者としての肩書も持ち、社内では「コンプラの番犬」とも「理詰めの魔女」とも呼ばれている。
彼女はまっすぐ田辺を見つめ、口を開いた。
「あなたの中には、“別の魂”がいるようですね」
一瞬。
空気が、止まった。
田辺の目が細くなり、指先がわずかに動く。反応は――明らかだった。
だが、田辺の表情には、どこにも「驚き」がなかった。
「……さあ、どうでしょうね。そんなオカルトを信じるようなタイプには見えませんけど?」
軽く、肩をすくめる。あくまで事務的に、あくまで日常の延長として。
神楽坂は目を細めた。その目はまるで“解けた方程式”を見るような冷静さをたたえていた。
「……だったら、その魂に、仕事を頼めばいい」
田辺の声は静かだった。
「定時までには終わらせてやる。こっちは“働き方改革”厳しいんでね」
沈黙。
神楽坂は、思わず吹き出しそうになった。そして――ゆっくりと、笑った。
「やはりこの男……面白い」
その笑みには、確信があった。
この男――田辺健一。いや、彼の中に眠る“何か”は確かに異質で、異世界的だった。
⑤異世界と現代社会。
ふたつの世界が、静かに交わりはじめていた。