社内戦争とおっさん革命 ──テーマ:真の強者は、地味な顔をしているのよ──
内部告発という爆弾
朝のオフィスを、乾いた電子音が切り裂いた。
ピコン、と鳴った瞬間、ざわりと空気が揺れる。
「なにこれ……?」
「え、嘘でしょ……」
ざわつく声と共に、モニターに向かう社員たちの顔が一斉に強張る。
田辺も、ゆっくりとメールを開いた。
──件名:【内部告発】営業Aチーム経費水増し工作について
──内容:
営業第一部Aチームが組織的に経費精算を水増ししており、経理部の特定職員もそれに協力していた形跡があります。
以下、関与が疑われる経理部職員の実名リストです。
田辺の目が、ある名前で止まった。
「朝倉なな」
若手のホープ、業務支援課きっての元気印――その名が、無慈悲に晒されていた。
「……うそでしょ……」
ガタ、と椅子を引く音。朝倉ななが、膝に力が入らず座り直した。
顔は真っ青。握った手が小刻みに震えている。
「田辺さん……あたし、終わりっすかね……?」
細い声が、まるで冬の隙間風のようにオフィスをすり抜ける。
だがそのとき、田辺の背筋はピンと伸びた。
騒然とする中、彼だけが静かに、自席に腰を下ろす。
ブラインドタッチでPCを起動し、フォルダを開く。
先週の経費処理データ、承認フロー、過去の対応履歴――すべてはそこにある。
「終わらせたくなければ、終わらせなければいいだけだ」
低く、冷静な声。
それはまるで、戦場に立つ軍師のような静謐さを帯びていた。
田辺係長(43)、平凡な社畜。
──その実、社内戦争を制する地味な革命家だった。
「……じゃ、今日のコンプラ会議は、俺が司会やりますね」
営業部・大迫マネージャーの開口一番、妙に明るい声が広い会議室に響く。
だがその笑顔の奥には、明確な“処刑人”の意思があった。
大迫の隣に座るのは、経理課のベテラン、佐野主査。
古参でありながら権威と保身を愛し、今なお「経理部の門番」と呼ばれる男。
ふたりの目配せは、すでに全てが仕組まれた段取り通りであることを物語っていた。
「では早速、本題に入りましょう。今回、社内匿名メールにより告発された“経費不正疑惑”についてですが……」
スライドに映されたのは、例の経費処理票のコピー。
提出者:営業Aチーム。処理担当:経理部 朝倉なな。
目立つ赤線で強調されているのは、“申請額と実支出の乖離”。
「ここですね。経費処理に重大な瑕疵がある、という指摘。社内倫理の根幹を揺るがす話です」
ざわ……と空気が乱れる。
会議室の壁沿いには、他部署の幹部や部長クラスが黙って座っていた。
その視線が一斉に、ひとりの若い女性に向けられる。
「……あたし、朝倉ななです」
震える声で立ち上がる朝倉。
書類を抱きしめるように胸に当て、俯いたまま続ける。
「申請内容は、すべて営業部側の入力をもとに処理しただけで……私は……」
「“言い訳”にしか聞こえませんねぇ」
スパッと、大迫の声が飛ぶ。
ニヤリと口角をあげながら、彼は朝倉の言葉を遮った。
「そもそも、経理とは“正確に数字を読む”職責。いくら営業部の言いなりとはいえ、あなたはそのまま通したわけでしょう? なら“共犯”じゃないんですか?」
「……っ!」
朝倉の目が潤む。
だが助け舟は、上司である佐野主査からも出なかった。
「この処理は、私のチェックから外れていました。彼女が単独で処理したものでしょう。……組織としても、非常に遺憾です」
そう言って、佐野は何の感情も込めず、朝倉を切り捨てた。
その瞬間。
田辺はゆっくりとPCを閉じ、椅子から立ち上がった。
ネクタイをゆるめ、名札を外し、静かにスーツの袖をたくし上げる。
――これが「裁判」なら、証拠と真実を持つ者が最強だ。
社内の誰より地味で、誰より淡々と働く男が、今、戦いの場へと歩み出る。
「……すみません。その議論の前に、事実確認を提案してもよろしいでしょうか」
敵派閥の粛清ショーは、ここから崩壊していく。
「……その前に、ひとつだけ。事実の提示をさせてください」
静まりかえった会議室に、田辺の声が落ちる。
誰もが彼の存在を忘れていた。
いや、正確には、空気と同化していたのだ。
年季の入ったスーツ。くたびれたYシャツ。ノー感情の目元。
定時退社、無抵抗主義、昼はからあげ定食オンリー――そんな「地味なおっさん」田辺が、
この場で突然、立ち上がった。
「……田辺くん? 今はコンプラ会議の途中だ。発言は――」
「記録、残ってますよね? この会議。なら、全員で見ましょう」
田辺は手元のUSBメモリを取り出し、プロジェクター端子に差し込む。
次の瞬間――
「っ……!?」
「なんだ、これ……」
スクリーンに現れたのは、膨大なデータの羅列だった。
処理ログ。決裁ルート。メールのやり取り。承認者の一覧。
タイムスタンプの全記録。
田辺は無表情のまま、淡々と話し始める。
「まずこちら。問題とされている経費精算のログです。
すべて、タイムスタンプつきで処理経路が追えます。
朝倉さんは、上司である私の承認を経て、そのまま部門承認に回しただけ。
しかもこの処理フローは――設計したのは、佐野主査。あなたですね?」
「っ……!」
「そしてこちらが、営業部Aチームからの『支出調整依頼』メール。
つまり、“予算オーバー分を別項目で処理しろ”という依頼。
これに対し、業務支援チームでは『本来望ましくないが、経理課の佐野主査がOKなら』と明記。
佐野主査は“問題なし”と明言して承認しています。ログにあります」
画面には佐野主査の承認印が光る。
「さらに、経費コードの誤使用があった件。
これは旧システムのデフォルト設定の不備で、自動変換ミスによるもの。
現在は修正済みで、再発防止策も完了しています。
……つまり、“誰のミスでもない”。
責任の所在があるとすれば、それはシステムの初期設計段階――
当時のプロジェクトリーダーにありますが、それも明記されています」
会議室に、沈黙が走る。
田辺の言葉は、怒ってもいなければ、攻撃的でもない。
ただ、冷静に、事実を積み上げていくだけ。
だがその「地味すぎる真実の重さ」が、参加者たちを圧倒していく。
「誰かを吊るし上げることが“改善”ではない。
真の強者ってのは……騒がず、冷静に、仕組みそのものを変えられる人です。
――それだけ、です」
一礼して、田辺は静かに腰を下ろした。
その姿はまるで、ひとつの嵐が過ぎ去った後のようだった。
昼休み明けのオフィスは、どこか重たい沈黙に包まれていた。
あの“コンプラ会議”からまだ一時間も経っていない。
田辺はいつものように自席に戻り、湯気の立つマグカップを手に、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
その隣、目を赤くした朝倉ななが、ペコリと頭を下げた。
「田辺さん……ほんと、ありがとうございました……」
田辺はちらと彼女を見たが、すぐ視線をPC画面に戻し、マグをひとすすり。
「お礼はいい。仕事に戻ろう」
その口調は淡々としているのに、どこか背筋がしゃんと伸びるような、不思議な迫力があった。
——今朝まで泣きそうな顔でファイルを抱えてた地味なおっさんが、
——さっきまで社内最強の権力者たちを、冷静に“データ”で粉砕したのだ。
「あの……田辺さん、強いっすね……」
朝倉がポツリとつぶやく。
田辺は少しだけ視線を横に流し、そしてまた、コーヒーをすすった。
「……強さってのは、声の大きさじゃない。黙ってやるべきことをやるだけだ」
そう言って、彼はひとつ深いため息をつき、椅子をくるりと回して画面に向き直る。
——キーボードを叩く音だけが、静かな戦場に、再び鳴り響きはじめた。