第1章:目覚めよ、哀しき係長:【起】「処刑台の次が目覚まし時計だなんて」
シーン1:処刑直前の回想(旧世界)
――雨だった。空が、まるで私の末路を祝うかのように、冷たく灰色の涙を流していた。
王城の中庭。観衆のざわめきは、遠い雷鳴と共鳴している。ドレスの裾は泥にまみれ、濡れた金髪が肌に張り付く。けれど私、エレノーラ・フォン・グランツは、ただ静かに、処刑人を見つめていた。
「罪状、読み上げるまでもありませんな。第一王子に対する謀反及び毒殺未遂。その罪、万死に値する!」
声を張る役人の顔が、私には滑稽にすら思えた。ああ、そう。いつもそうやって、罪を塗りつけて、燃やすように人を殺してきたのでしょう? 私だって、その一端にいた。ならば今さら恨む道理もない。
(……結局、この結末、か)
群衆の中に知った顔はない。味方など、最初からいなかったのだ。
(もし、もう一度生まれ変われるのなら……)
思考は、そこでふと途切れる。
処刑人の斧が高く掲げられた瞬間、視界がふっと、黒に染まった。
「次に目覚める時こそ、真の罰がくだるのだろう――」
その言葉は、誰にも聞かれないまま、雨音に溶けた。
そして彼女の世界は、終わった。
……はずだった。
シーン2:目覚めると、そこは6畳ワンルーム
ピピピピピピピ――!
耳をつんざく高周波の電子音が、脳の芯まで突き刺さる。私は跳ね起きた。
「……なに? 今の音は?」
声が、低い。くぐもって、だみ声だ。
目を開けると、そこには見慣れない天井。色の抜けた木目の板が薄汚れている。まるで、どこかの貧民街の宿屋の天井のようだが――それよりもなお、安っぽい。
「……ここは、どこ?」
布団。というにはあまりにペラペラの、薄い敷物。肌触りの悪い布。冷たいフローリング。そして私は……スーツ姿? なんなのこの……灰色の服。全然かわいくない。
「おかしいわ。だって私、さっきまで――」
あの処刑台。雨の音。観衆のざわめき。私を殺そうとする民衆の目。第一王子の……あの顔。
私は……私は死んだはずじゃなかった?
ふらふらと立ち上がる。体が重い。股関節がギシギシ鳴ってる。
ふと、壁にかかった鏡に目をやる。
「…………え?」
そこに映っていたのは、見知らぬ男の姿だった。
ぼさぼさの髪。ヒゲ。眠たそうな目の下には、ひどいクマ。肩が凝ってそうなスーツに、くたびれたネクタイ。
「……だ、誰よこのヒゲおやじ。え、えっ? まさかこれ……私? 私が……この、おっさんに!?」
視界がグラグラ揺れる。呼吸がうまくできない。
「いやいやいや、どういうことなのよこれ!? 夢? 幻覚? 処刑された後の悪夢!?」
慌てて部屋の中を見回す。鉄の箱みたいな箱。台の上に乗ったガラスの扉。中に謎の容器がずらっと……これ、冷蔵庫? あとあれは……謎の光る板?
「スマートフォン……って書いてあるわね。すまーと、ふぉん……?」
機械の塊。音の鳴る小さな箱。床に投げ出されたビニール袋。味のない白いカップに、何かの残骸。カップ麺。コンビニ弁当。
「うそ……私、これ……こんなところで生活してたの?」
信じたくない。でも、この体の重さ。肩の痛み。顔を覆うヒゲの感触。
――これは、まぎれもない「現実」だった。
「なんで……なんで私が……こんな、冴えないおっさんに転生しなきゃいけないのよ……!!」
私はエレノーラ・フォン・グランツ。かつてこの世界にはなかった美と才知の象徴。
なのに今は、ヒゲでクマでスーツのおっさん!?
思わず頭を抱えた私は、再び床に崩れ落ちた。硬い床が、現実の冷たさをじかに伝えてくる。
「誰か、嘘って言って……」
シーン3:文明との戦い、始まる
埃っぽい部屋の片隅。ひときわ存在感を放つ薄い板――《スマホ》に、エレノーラ(中身)はついに触れてしまった。
「……この薄っぺらい魔道書のような物体……。しかも、なぜか光っている……?」
指がふれると、突如震えるように明滅し、まばゆい画面が浮かび上がる。
「ひぃっ!? な、なにこれ!? 召喚陣でも起動した!?」
おそるおそる指を滑らせると、謎のアプリと呼ばれるアイコン群がうじゃうじゃと動く。どれも禍々しい絵柄と意味不明な記号に満ちており、明らかに呪術的雰囲気を漂わせている。
――ぴっ。
軽く触れた先で《カメラ》が起動。
「……え?」
画面いっぱいに映るのは、無精ヒゲに疲れた目、顔面全体に生活疲労を刻み込んだような――
「誰、この中年おやじ……」
首をかしげる。だが、画面の中のおっさんも同じようにかしげる。
「やめて……やめなさい……! やめてっ……!」
スマホを床に落とし、ぶんぶん頭を振る。これは幻覚。処刑のショックで見ている悪夢だ。そうに違いない。
フラフラと立ち上がり、洗面所へ向かう。
が――
ジャバアアアアッ!
「きゃっ!?」
鏡の下、蛇口から勢いよく水が噴き出した。触ってもいないのに。
「魔道具!? 水属性の罠っ!? これ毒入ってるんじゃ……っ!」
びしょ濡れになりながら身をひるがえす。悪夢のような現代技術が容赦なくエレノーラ(中身)を襲う。
部屋のクローゼットを開ければ、そこには地味な色合いのワイシャツ、ネクタイ、スラックスが整然と並ぶ。
「なにこの服の統一感……囚人服の正装版……?」
息を呑んで袖に手を通した。絶望とともに、スーツを着た“自分”の姿が鏡に映る。
「ああ……これが罰だというの……? 女としての尊厳すら奪って、こんな……ヒゲおやじにして……!」
それでも、目に飛び込んできた名刺や社員証は現実を否応なく突きつけてくる。
> 田辺健一
> 株式会社トリプルクラウン経理部
> 係長
「田辺健一……? 誰よそれ。まさかこの体の名前……?」
履歴書の職歴欄には、「まじめ」「堅実」「趣味:節約・株の勉強」など、エレノーラの精神とは真逆の単語が並んでいた。
「こんなの絶対おかしい……。誰がこんな役職を割り振ったのよ……!」
だが、エレノーラにはまだ気づいていなかった。
――この男、田辺健一としての“平凡で地味でしんどい日常”こそが、本当の“処刑”だったのだと。
シーン4:田辺健一の記憶が流れ込んでくる(導入)
私は、エレノーラ・フォン・グランツ。
かつてこの大陸の北東に位置するグランツ辺境伯家の令嬢。美貌と誇りを武器に、宮廷に爪痕を残した女――
「……の、はずだったのに」
――田辺健一、四十一歳。独身。係長。
書類の山とクレーム処理に追われる、くたびれた社畜の姿が、なぜか私の中に“在る”。
記憶が――流れ込んでくる。
乾いたスニーカーの音がアスファルトを叩く。始発に揺られ、満員電車に押し潰され、無表情で改札を抜ける男の姿。
職場のデスク。コーヒーの缶。妙に偉そうな上司の説教が耳を刺す。
「……たなべ、お前さあ、また報告書のフォーマット違うって言ってるだろ?」
「え? この仕様、前回のと同じ――」
「“言い訳すんな”ってのが、お前の一番の仕事になってんぞ最近?」
ぴしゃり、とデスクに書類が叩きつけられる感触すらリアルに蘇る。
ランチは社食のうどん、コンビニのサラダチキン。夜は居酒屋で「仕事ってなんすかねえ」などと誰かと笑いあう、空虚な時間。
ああ――
これは地獄だ。
魔術もない。騎士もいない。誰かのために命を懸ける理想も、誇りも、尊厳も。
何一つ、無い。
あるのは、数字。報告書。評価シート。Excel。
「っ……!」
思わず布団の中で叫び声を押し殺す。苦しみで胃がねじれる。
「これが、この世界の“拷問”……? これが、この身体の持ち主が過ごしてきた日々?」
私を処刑台に追いやった王子の薄笑いが、ふと脳裏をよぎる。
《次に目覚める時こそ、真の罰がくだるのだろう》
まさか。
まさかこの日常こそが――
この、終わりなき“社畜”の連続こそが――
「……これは、地獄のやり直し。罪人のための“第二の処刑”なの?」
私は震える手で、“田辺健一”の名刺を握りしめた。
シーン5:地獄の1日が始まると知らずに
ピピピピピピピ――!
「う、また鳴った!? この箱、意志があるの!? 魔導具なの!?」
叫びながら、私は再び“目覚まし”なる音の出る箱をつかんで投げそうになったが、ギリギリで思いとどまった。
「まずい……壊したら、呪いが解けないとかあるかもしれない……!」
私は布団(というより敷き布?)をはねのけ、すべるように立ち上がった。そして床に転がったスーツに目をやりながら、ため息をつく。
「さっきと同じ服……着替えって、ないの?」
しかし、部屋の端に立つ“クローゼット”という名の木製の箱を開けてみると、そこには色違いのスーツが何着もズラリ。
「この囚人服の正装版みたいなものばかり……。色も地味すぎる……。この世界には“ドレスコード”という呪いがあるのかしら?」
嘆きながら、私は見よう見まねでワイシャツとスラックスを装着していく。ボタンと戦い、シャツの裾をインしようとして腰をひねり、何度もため息。
「……この布、硬すぎて動きづらい……まるで騎士の鎧じゃない……」
次に現れた敵、それは“ネクタイ”。
「これは……なに? 帯? いや、まさか……絞首刑の道具……?」
一度は首に巻いてみるものの、うまく結べず、うっかり締めすぎて咳き込む。
「うぐっ……これは完全に処刑道具……!」
そのとき、部屋の片隅に放置していた“スマートフォン”が、突然光り出した。
「ヒィッ! 呪い発動!?」
びくりとしながらのぞきこむと、画面にはこう表示されていた。
《07:46 JR南武線 ◉ 乗車まで残り14分》
「……なにこれ……なんでそんなに刻限を知らせてくるのよ!? 時間にうるさすぎる……この世界、恐ろしくない!?」
私は慌てて荷物をかき集め、ようやく足を突っ込めた革靴でドタドタと走り出す。
玄関のドアを開けると、コンクリートの廊下と、無数の扉が並ぶアパートの通路が現れた。
「い、いざ……社畜界……参るっ!」
そうして私は、知らず知らずに、地獄のような一日へと足を踏み出していくのだった――。