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幕間二

──録音開始。

(ザザ……)

──これは榊原鷹彦総理の元秘書・橘綾子による、口述記録の第六回目となる。


「“あれ”が発表された日……。永田町が揺れた、なんて表現じゃ足りませんでした。

**本当に、“この国が空中分解するかもしれない”って、みんなが本気で思ったんです。**あの瞬間、霞が関も、与党本部も、野党控室も、もう“政治”の機能を果たしていませんでした。ただ……呆然としていました」


その日――2029年11月10日。

午後1時4分。臨時国会にて、総理大臣・榊原鷹彦が特別演説の壇上に立った。


記録映像では、その声は穏やかで、抑揚もなく、淡々としていた。

だが、言葉は鋭く、致命的だった。


「本日をもって、日本国政府は国家主権の一部を、アメリカ合衆国を中心とする国際連邦機構に“貸与”することを決定する。

これは、主権の“喪失”ではない。“未来の主権”の“保全”のための猶予措置である」


議場がどよめいたのは、一秒遅れだった。

その直後、地鳴りのような怒号が巻き起こった。


「売国奴!」「憲法違反だろうが!」「狂ってる!!」

罵声は壇上に届き、議長のマイクが混線し、臨時国会の中継音声は一時的に停止した。


永田町の“機能”は、あの日あの瞬間、一時的に死んだ。


たった数時間のうちに、日本経済は反応した。

日経平均株価は一時15,000円を下回り、円は主要通貨に対して急落。

外務省には各国の緊急照会が殺到し、ワシントンDCの国務省は深夜にもかかわらず記者会見を開いた。


SNSは世界規模で炎上。

ハッシュタグ《#日本の死》《#主権の墓場》《#未来を売った国》が世界のトレンドを独占した。


橘綾子(当時:首相秘書官)はそのとき、総理執務室の裏手――

職員用通路を抜けた先の狭い控室にいた。


モニターには、壇上に立つ榊原鷹彦の姿が映っていた。

周囲の秘書官や補佐官たちは顔を覆い、誰も声を出さなかった。


そして、橘は耐えきれずに口を開いた。


「……頭おかしいですよ、総理。どうして……どうして、そんなことまで……」


その瞬間、榊原は振り向いた。

無言で数秒、橘を見つめたあと、口元にだけ微かな笑みを浮かべて、こう言った。


「“正気の人間の言葉”なんて、誰も耳を貸さなかったろう。

だったら、“狂気と紙一重の現実”だけが、この国を叩き起こせる」


彼の目には、怯えもためらいもなかった。

あるのは、焼き尽くした灰の中で何かを始めようとする人間の――確信だけだった。


橘は、あのときの空気をこう記録している。


「……国家が、一瞬、呼吸を止めたようだった。

心臓が止まって、その後、再び動き出すまでの“虚無の数秒間”――それが、私の体に刻まれた」


そして、彼女の記憶は“さらに前”へと遡っていく。

あの政策が構想され、言語化され、誰にも理解されず、それでも彼が貫くと決めた“あの日”のことへ。


──録音一時停止。

(小さなため息が入り、ペットボトルの開封音)

──橘は、しばし沈黙したのち、再び語り出す。


「……あの人はね、選挙に負けたあの瞬間から、もう“国の主権”そのものに執着してなかったんです。

それどころか、**“主権なんて、とうに国民の手にはない”**って、ずっと前から思ってた。

“国家の枠組み”を支えてるのが空気なら、その空気を作る装置ごと外に預けるしかないって……」


橘が語る“主権貸与政策”は、単なる外交案件でも、国際的な屈服でもなかった。


「あれは、“主権を取り戻すための外注”だったんです。

支配されることを選んだんじゃない。もう一度、取り戻すために“自分たちで破壊する”って、そういう……異常な覚悟でした」


今でこそ、国民の約45%が「主権貸与政策は仕方なかった」と答える。

だが発表当時、それを口にする者は社会的に抹殺された。


橘もその一人だった。


「私の家、夜に石を投げられました。郵便受けには“死ね”って書かれた紙が何枚も……。

母も入院先の病院で“売国奴の娘”って名指しされて、転院を余儀なくされました」


それでも、橘は離れなかった。

“あの人”の背中を、最も近くで見ていた人間として。


「本気だったんです。

鷹彦さんは、“国を潰したい”なんて思ってなかった。

ただ、“この構造を潰さなきゃ、もう何も残らない”って、そう思ってた。

壊すことが目的じゃない。再生のために、どうしても一度、無にしなきゃいけないって――」


あの日の記録映像が、再生される。

壇上で、議場の怒号を背に、マイクを握る榊原鷹彦。


彼は、一言もためらわずに言った。


「──これは敗北ではない。

これは“猶予”だ。

国民が真に自立する未来を信じて、私は主権を一時的に手放す。

いまこの国には、“希望を直視するだけの余裕”がもう残っていない」


その言葉は、かつての恩師・蓮見静雄でさえ、決して口にできなかった言葉だった。

制度を内側から変えることに執着していた人間では、たどり着けなかった場所だった。


──録音再開。


橘の声は、わずかに震えていた。


「……ねえ、あの人、本当に正しかったのかな。

今こうして、日本が立ち直ってきてる姿を見ると、そう思える時もあるんです。

でも……“正しさ”って、誰が決めるんでしょうね?」


小さな間。


「だって、あの人、もう“どこにいるか”さえ……誰も知らないんですよ」

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