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第六章:最初の選挙、最初の敗北

榊原鷹彦、三十五歳。


司法試験を経て、政治の実務に触れ、理念を抱き、師と呼べる存在さえいた。だが、彼がそのすべてを投じて挑んだ初めての国政選挙は、あまりにも現実的な無関心の中にあった。


選挙区は栃木県第三区。保守系の重鎮が5期連続で地盤を固めてきた地域である。


中選挙区時代からのしがらみ、農業団体との結びつき、自治体との癒着、そして地域住民の「知ってるから投票する」という空気──。


榊原は、そこに無所属・新人として、ただひとり理念だけを掲げて立った。


事務所は、駅からも遠い町外れの古びた中古家電店の2階だった。


冷蔵庫やブラウン管テレビが積まれたままの倉庫を片付け、持ち込んだ会議机と折りたたみ椅子、そしてホワイトボードだけが彼の“司令室”だった。電話は私用のスマホを兼ね、資金は少なく、ボランティアもほとんどが学生時代の友人か、恩師のつてで繋がった“奇特な支援者”に過ぎなかった。


けれど榊原は、諦めていなかった。


いや──何かを“諦めてしまえば”、その瞬間に政治家ではなくなると、どこかで思っていた。


彼は、朝から晩まで、駅前に立ち、住宅街を歩き、広場でマイクを握った。


だがその語り口は、候補者というよりも**「思想家」あるいは「批評家」**のようだった。


「この国の民主主義は、制度に“主権”を奪われています。

制度とは、選挙区制度、財政制度、そして統治機構そのものです。

我々が選んでいるのは“人”ではない、“制度”の管理者にすぎない。

私は、外からその制度を壊す覚悟で立ち上がりました──」


その言葉に、足を止める人もいた。だが、多くは困惑と冷笑で通り過ぎていった。


ある老婦人は、演説のあとにぽつりと言った。


「……難しい話ねぇ。もっと、年金とか、子育て支援の話をしてくれたらいいのに」


中年の男性は、鼻で笑いながらつぶやいた。


「理屈ばっかりで、夢物語だな。税金はどうやって集めんだよ?」


理念は届かなかった。


むしろ、その言葉は浮いていた。まるで、この土地に属さない“外部の声”のようだった。


榊原は、焦りと悔しさの中で、それでもマイクを握り続けた。


日を追うごとに目の下の隈は濃くなり、言葉には疲労が混ざり始めた。


けれど、それでも語らずにはいられなかった。


「この国の政治には、もはや“修理”ではなく、“再設計”が必要です。

制度の中で争う時代は終わりました。

次に必要なのは、制度そのものを一度預けなおすことなんです──」


彼は、この言葉を「理解されない」とわかりつつも、口にせずにはいられなかった。


選挙戦の最終日。


支援者も疲れ果て、スタッフも口数が少なくなった。


榊原は、誰に促されるでもなく、街外れの小さな公園に向かった。


夕暮れのなか、滑り台の傍らでひとりマイクを握った。子どももいなければ、通行人もいない。


ただ、その空間に向けて、言葉を放った。


「誰も、耳を貸してくれなかった。

それでも、僕は言いたい。

この国には、もうやり直す時間が残されていないんです。

“制度に支配された民主主義”のままでいれば、日本は静かに、穏やかに、死んでいく。

だから僕は、制度を捨てる覚悟を持った──

それが、“国家に主権を貸す”という思想です」


その演説は、誰にも届かなかった。


録音もされず、記事にもならず、SNSにも拡散されなかった。


彼の声は、文字通り、無人の夕空に吸い込まれていった。


選挙結果が出たのはその翌日。


得票率、4.1%。


供託金、没収。


市役所に掲示されたポスターは、選挙翌週には業者によって剥がされ、破られ、捨てられた。


駅前で頭を下げていた榊原のもとに、通勤中のスーツ姿の男が通りすがりに言った。


「まあ、次は自民から出れば勝てるかもな!」


それが、日本の政治というものだった。


選挙の3日後。榊原は誰とも会わず、電話も出ず、言葉も発さなかった。


ただ、都内の古いアパートの一室で、資料も書類も片づけずにぼんやりと天井を見ていた。


かつて、蓮見静雄が語っていた言葉が、今さらのように、耳の奥でこだました。


「政治は、言葉ではなく“空気”で動く。

理念は、制度の外にある限り無力だ──」


榊原は、敗北した。


選挙ではなく、「空気という見えざる壁」に。


だがその壁を前にして、榊原は沈黙しなかった。


むしろそのとき、彼の中である確信が芽吹いていた。


──この国では、制度の中から変えることはできない。

ならば、制度ごと、外に預けてやる以外に再起の道はない。


この瞬間が、**「主権貸与政策」**という思想の、実質的な出発点だった。


静かに、孤独に、だが確かに。


榊原鷹彦の構想は、この敗北の地平から歩き始めたのだった。

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