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第四章:制度の心臓に触れる

永田町の修行は、議事堂の喧噪のなかではなく、霞が関の静かな回廊から始まった。


人々の目に触れず、声も届かない。けれども、制度という名の脈動は、確かにここで生まれ、国家という肉体を巡っていた。榊原鷹彦がそれを初めて意識したのは、ある冬の夕暮れだった。


総務省大臣官房──国の制度設計に関わる中枢の一つ。その一室で、榊原は「はじめて国家と対面した」と感じた。


紹介者は、蓮見静雄。


元議員にして、現在は表の舞台から身を引いた“黒衣”のような存在。榊原は、その蓮見の命によって、半ば諜報員のように霞が関の奥に送り込まれていた。


「ここから先は気をつけろよ」


エレベーターに乗る直前、蓮見が低い声で言った。


「霞が関は“言葉”で攻撃してこない。“何も言わないこと”で、お前を黙らせてくる」


その言葉の意味を、榊原はすぐに思い知ることになる。


応接室に案内されたとき、そこには名刺交換も、資料も、笑顔すらなかった。無機質な会議机を挟んで座っていたのは、30代後半ほどの官僚。肩書も、氏名も、名乗られることはなかった。


ただ一言。彼は淡々とこう告げた。


「あなたの政治思想には関心がありません。

私たちが見るのは、“制度設計の筋”だけです」


榊原は一瞬、息を呑んだ。それでも反射的に問い返した。


「では……国民の意思は、制度にとって何ですか?」


官僚は、まばたきすらせずに答えた。


「“リスク”ですね。制度の敵とは言いませんが、不確定要素です」


榊原は言葉を失った。


理想主義者の戯言と切って捨てるのではない。感情を込めて反論するわけでもない。ただ、“不確定”というラベルを静かに貼って、遠ざける。それが、この国の制度の守り人のやり方だった。


男は続けた。


「統治とは、“失敗しないこと”の積み重ねです。

 変革は、必ず不具合を生む。だから官僚組織は、変化より“継続”を好むんですよ」


「だとすれば、変革は永遠に訪れないのでは?」


「その通りです。だからこそ政治が存在する。

 ただし、政治家が制度の使い方を誤れば、我々は“止める側”に回ります」


それはまるで、無血の宣戦布告のようだった。


榊原はそれを「理知による抑圧」だと感じた。霞が関という迷宮の守人たちは、声を荒げることなく、構造で反抗を無力化する。そのやり口に、ある種の美しさすら感じた。


その夜、蓮見が煙草をくゆらせながら笑った。


「“総務官僚は刃物を持った医者”だ。治療もできるが、命も取れる」


やがて春。桜が咲き始める頃、榊原は次なる迷宮へと足を踏み入れた。


今度は財務省──国家の血流を握る者たち。とくに「主計局」と呼ばれる部署は、霞が関の中でも“数字で世界を動かす”技術官僚たちの巣だった。


面会したのは、40代前半の無表情な男。眼鏡の奥の目は、まるで物理法則を語るような冷静さで、政策を語った。


「あなた方は、“予算”という言葉の重みを理解していない」


男は一枚の紙を取り出した。


「これは、ある野党議員が提出した“子育て支援法案”です。文言も理念も立派です。しかし、ここをご覧ください。財源の算出が、完全に民間シンクタンクの試算に頼っている」


「つまり……?」


「実現不可能。絵に描いた餅。

 我々は、“実現不可能な夢”に税金を払うわけにはいかないんですよ」


榊原は沈黙した。


そこに込められた本質は、「正しさ」ではなかった。

それは、「説得力の形式」であり、「予算という言語」であることの恐ろしさだった。


──この国では、「夢」は数字で語れなければ存在しない。

──そしてその“数字の言語”を操れるのは、限られた数百人の官僚だけだ。


夜。地下のバーでグラスを傾けながら、榊原は蓮見に呟いた。


「この国の根幹にあるのは、官僚の言葉ですね。国民の言葉じゃない」


蓮見は氷の溶ける音を聞きながら、静かに返した。


「そうだ。そして、お前が変えたいと思っているのは“言語そのもの”なんだろう」


その瞬間、榊原の中にあった漠然とした焦燥は、明確な思想へと変貌した。


政策を変えるだけでは足りない。

制度を設計し直すだけでも足りない。


この国の制度が話す「言葉」を、その土台ごと覆さなければ、未来は奪還できない──。


それが、後に「主権の猶予」と呼ばれる思想の、最初の鼓動だった。


榊原鷹彦の政治は、このとき、生まれた。

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