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第三章:透明な議事堂

「ここからが本番だ」


蓮見静雄は、スーツの上着も脱がず、ネクタイをわずかに緩めたまま言った。


場所は、都内某所──かつて彼が現職の議員だったころに使っていた議員会館の一室。今では表札もなく、郵便受けには広告とゴミとが山のように詰まっていた。外から見ればただの空き部屋。だが中では、いまもなお、かつての日本政治を水面下で動かしていた男が、ひっそりとその火を絶やさぬように灯し続けていた。


榊原鷹彦が、そこへ弟子入りしたのは、大学を卒業し、司法試験に合格した年だった。


検察庁から内定が届いていた。親は泣いて喜び、恩師は何の迷いもなく祝辞を述べた。だが、彼はその進路を選ばなかった。検察官になることは、彼にとって「国家の言い分を代弁する役割」だとしか思えなかった。


彼の心は、もっと別の場所へと引かれていた。


──それが、蓮見静雄という、すでに「引退」していた政治家だった。


「まず教えるのは、“発言力”じゃない。“空気の制御”だ」


蓮見は言った。


「国会ではな、誰が何を言うかじゃない。誰が“誰に”質問するかの方が重要なんだよ。

“答えさせる”という構造が、最初から仕組まれてるんだ」


初日から、榊原に渡されたのは、古びた国会年鑑と人事異動のスクラップブックだった。


「政治家の地図を描け」


それが蓮見の最初の指示だった。


・各派閥の親子関係と断絶の歴史

・選挙区の貸し借りに伴う恩義と裏切り

・メディアと通じる秘書官の名簿

・財務省・外務省・経産省における官房人事のローテーション表

・過去十年の審議拒否と与野党合意の背景資料



朝から晩まで、榊原はその地図をノートに描き続けた。表には見えない関係。政治家同士の“話せる”関係と、“話せない”事情。政策とは何か。決定とは何か。それが「制度」ではなく、「沈黙の構造」によって担保されているという事実を、彼は徐々に理解し始めていた。



「“制度”ってのはな、紙に書かれたことじゃない。“沈黙が保証してる構造”のことだ」


蓮見は毎晩のように同じ言葉を繰り返した。


「言えないことの総量。それが、この国の制度だ。

 だから、“正義”なんてのは、最初から議題にならない」


ある日、榊原は思い切って聞いた。


「先生は……もう一度、政治家に戻ろうと思ったことはありますか?」


蓮見は短く笑い、煙草に火をつけた。天井を見上げ、紫煙をゆっくり吐きながら、こう答えた。


「ない。……だが、俺の政策を執行する“手”は必要だった。だから、お前を育ててる」


やがて蓮見は、榊原を「野党議員の私設秘書」として国会に送り込んだ。


表向きは中堅野党議員の秘書。だが実際には、蓮見が裏で糸を引く“影の事務所”だった。


本会議の資料、与野党協議のメモ、官僚との連絡ノート──表では交わされない“情報”が、そこを拠点に交錯していた。


そして、榊原は初めて国会の本会議を傍聴した。


その光景を、彼は一生忘れない。


議場に響く声、だがその言葉に、何一つ「緊張感」がなかった。全てが予定通り。予定された原稿の朗読。予定された答弁。カメラに映る角度でうなずく議員。ニュース映えを意識した怒声。


「……討論じゃない。これは、予定された舞台劇だ」


榊原がぽつりと呟くと、後ろから蓮見の笑い声が聞こえた。


「そうだ。お前、ニュースで見たことあるか? 本会議で“突然鋭い指摘”が飛んだこと。ないだろ?

 なぜなら、あれは“事前に提出された質問書”の朗読会だからだ」


「……つまり、予定調和」


「ああ。だからこそ、“予定の外にある意見”は、制度にとって脅威なんだ」


彼は知った。


・政策は、委員会の前に決まっている

・法案は、議場で決まるのではなく、与党会合と官僚会議で整形されている

・質問の内容すら、官僚が“模範解答”として事前に作成している


そこには、「透明性」などなかった。


むしろ、見せかけの“公開”こそが、最大のカモフラージュになっていた。


ある夜。事務所からの帰り道、濡れたアスファルトに信号が滲んでいた。榊原は、街のざわめきを背に、蓮見に言った。


「国民の政治参加が大事だって、子供のころから教わってきました。でも……」

「この国は、“見えないところで”政治をしてる気がします。まるで、“透明な議事堂”がもう一つ、裏にあるみたいに」


蓮見は立ち止まり、しばらく考えたあと、静かにこう言った。


「その“構造の裏切り”に怒れ。それを骨にしろ。

 お前が“普通の人間”なら、なおさらだ。普通の人間が、構造を理解して怒ったとき、民主主義は初めて始まる」


その夜、榊原は初めて、自分の中に芽生えた「怒り」に名前をつけた。


それは誰かに向けられたものではなかった。


──それは、この国そのものが孕む“不可視の構造”に対する怒りだった。


──それは、国を愛したいと思うがゆえに感じる、根源的な悲しみだった。


──それは、制度の上に浮かぶ仮面のような民主主義を、一度“透明に壊す”ための怒りだった。


そしてその夜から、榊原鷹彦という人間は──確実に、何かが変わり始めていた。

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