表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

幕間一

2054年 春 東京都内 某所


午後の陽が、ブラインドの隙間から細い帯となって床に伸びていた。

時計の針がゆっくりと進む音だけが、静かな部屋に染み込んでいく。


その空間は、古びた雑居ビルの一室──かつて建築事務所だったとおぼしき部屋で、壁の塗装はひび割れ、書棚の奥には埃を被った青焼き図面が残っている。


テーブルの中央には録音機材。

年代物の業務用レコーダーが据えられ、その上には赤い録音ランプが点滅していた。


その赤い光を前に、ひとりの男が背もたれに体を預け、語り終えた直後の静寂を受け入れていた。


男の名は──海藤仁かいどう・じん


かつて「主権貸与政策」を軸に国家の根幹を変革した内閣において、最年少で官房副長官に抜擢され、事実上の「影の首席補佐官」として動いていた人物。

今は政界から遠ざかり、公の場に姿を見せることもない。


そんな彼が、数十年の沈黙を破って、いま、言葉を語っていた。


「……それが、鷹彦さんの“始まり”です」


海藤は、あえて“榊原”ではなく、旧く呼び慣れた名前で彼を口にした。

だがその語り終わりに続いた一拍の間を置いて、彼は喉の奥で小さく咳払いし、目を伏せた。


「榊原総理が、国家に“復讐”する決意をした瞬間だった。

あの人は、政治家になりたかったんじゃない。“制度を裁く側に立ちたかった”んです」


言葉の節々に、彼がまだその人を「他人」ではなく「信じた存在」として捉えていることが滲んでいた。


録音機の赤いランプは静かに点滅を続けている。

対面に座る人物──インタビュアーはその姿を見せないまま、ただ無言のまま、彼の言葉に耳を傾けている気配だけをそこに漂わせていた。


沈黙が、まるで目に見えるように、机上に横たわっていた。


「今だから言えますが、あのとき私も思ったんですよ」


海藤はそう言って、視線をゆっくりとテーブルの上に落とした。

机の端に置かれた冷めたカップ、書き殴られたメモ用紙、そして少し傾いだ時計。


「“国家に殺された人間”が、国家そのものを乗っ取る。

それが可能なら、それは──静かなクーデターだって」


その言葉は決して比喩ではなかった。

確かに“あの人”は、戦車も銃弾も使わずに、この国の舵を奪った。

だがその過程は、戦場以上に血が通い、憎しみに満ちていた。


海藤仁。

その男は、若き日を“参謀”として過ごした。

榊原鷹彦という爆薬のような人物の隣で、その導火線に火をつけ、時にはそれを抱きかかえた。


だが今、彼はその日々を「語る者」としている。

かつて支えていた者として、何を語るべきか、何を黙っておくべきか──その境界を測るような話しぶりだった。


「でも……おかしいと思いませんか?」


海藤は、語りの流れを断ち切るように、問いを投げかけた。

目の前の誰かに語りかけたようでいて、誰にも語りかけていない。


「“主権貸与政策”なんて、総理大臣一人が決められるはずがない。

日本という国の枠組み──“主権”という法概念そのものを一時的に外国に預ける政策です。

これを通すには、政府内の合意、議会の同意、そして国民の沈黙……すべてが必要だった」


海藤は、わずかに間を置き、机に置かれた細いペンをつまむように持ち上げた。


カツ……と、ペンの軸を指で弾いた。

その音が部屋の中に小さく響く。


それは、緊張というよりも“確認”のような仕草だった。

彼が今、自分の言葉がどこに向かっているかを、内心で探っているような空気があった。


「私は全部を知ってるわけじゃない。……だけど、知っている“名前”はある」


その言葉に、録音機の赤いランプが突然──止まった。


音が途絶え、録音が一時停止されたことを知らせる“無音の断絶”。


海藤はペンを机に置いたまま、相手の反応を探るように口元だけを動かした。


「──やっぱり、その名前は“オフレコ”ですか」


空気がわずかに変わった。

部屋の外からは、かすかに車の通る音が聞こえた。

ここが東京のどこかであるという現実が、わずかに顔を覗かせる。


ブラインド越しに差し込んでいた陽光が、少しだけ角度を変えていた。

まるで、時間が少しだけ前に進んだことを告げるかのように。


海藤は目を細めた。


録音機の赤いランプが再び点滅を始めた。


沈黙が一拍、空気の中で揺れてから──

海藤仁は、テーブルの上に置かれた白い紙コップを手に取り、その中の冷めたコーヒーをじっと見つめた。

湯気はとうに失われ、表面には薄い油の膜が浮いている。


その液面の向こうにでも、過去の幻が浮かんでいるかのように、彼はしばらく目を落としたままだった。


そして、遠くを眺めるような声で言葉を継いだ。


「“主権貸与政策”の発表……あれは、今でも悪夢みたいに覚えてます」


低く、しかし迷いのない声だった。

語るたびに彼の中で蘇る映像が、言葉に色と輪郭を与えていく。


「本当に、いきなりでしたから。

事前に全容を知っていたのは、私を含めてほんの数人……それも断片的だった」


「内閣の中にも、演説当日まで“内容を知らなかった”という閣僚が複数いました。

……もっと言えば、“あれが演説になる”とは、誰も予想してなかったんです」


その日付は、2029年5月3日。憲法記念日。


場所は首相官邸前。

例年であれば政権の成果を穏やかに祝う程度の形式的な式典が行われるだけの日だった。

だがその年は違った。


「当日、午前10時。官邸の正面玄関に即席の演台が設置され、報道各社のカメラが正面に構えられた」


「NHK、民放6局が同時中継。総視聴率は78%──バラエティでもW杯でもない、政治演説の数字じゃない。

それでも、あの日は国中が“何かが起きる”という空気に包まれていた」


のちに「黒き憲法記念日」と呼ばれるようになる日だった。


「……榊原総理は、原稿を持っていなかった」


海藤はそう呟いて、少しだけ笑った。


「もちろん準備はしていましたよ。私も読み合わせをしました。

でも……実際の演説は、それとはまるで違っていた。

彼は、直前まで推敲していた原稿を使わず、壇上で即興に近い言葉を紡いだんです」


 

榊原鷹彦の口から、宣言されたのは、こうだった──


「我々は、自ら統治能力を喪失した国家である」

「ゆえに、我が国の主権の一部を、アメリカ合衆国に“貸与”する」


「その期間、最大で30年。代償として、我が国は制度を再構築する時間と監査を得る」

「これは敗北ではない。これは、リセットである」


その演説は、わずか12分。

だが、その余波は、数十年経った今なおこの国に揺らぎを残している。


「演説のあと、状況は一気に爆発しました。

数時間もしないうちに、官邸前には全国から数千人が集まり、怒声と叫びが飛び交った。

国会周辺では自発的に集まった市民グループが『国を売った』『売国奴』と叫び、投石騒ぎまで起きた」


「憲法学者たちは緊急に共同会見を開き、新聞の夕刊は一斉に社説で糾弾を開始した。

『違憲どころか、国家破壊行為だ』『戦後最大の暴挙』──

NHKでさえ、“前例のない憲法的挑発”という異例の文言を使ったんです」


海藤の語るトーンは冷静だったが、その静けさが逆に、かつての混乱の熱量を際立たせていた。


だが、彼は言葉を切ってから、少し呼吸を整えるように、コーヒーをそっと口に運んだ。

苦味を感じたのか、眉がほんのわずかに動いた。


「……でも、一方で」


沈黙のあと、重たくも淡々と、次の言葉を置いた。


「SNSでは、まるで違う反応も広がってた」


「もう無理だと思ってた。正直、ちょっとホッとした」

「自分の人生、何も変わらなかった。あとは誰かに任せたい」

「一回“誰か”に壊してもらうしかない。それが榊原だっただけ」


「そういう声が、目に見えて“広がってた”んです。

それも、過激な支持者とかじゃない。ごく普通の若者、会社員、子育て中の母親……

“怒り”よりも、“安堵”が先に立っていた」


海藤は机に肘をつき、重たい声でつぶやいた。


「反対の声は、多かった。確かに……圧倒的に多かった。

でも……“深く怒ってる人”は、少なかった。

これは、私が肌で感じたことです。……それが、何よりヤバかったんです」


「日本人は“主権”が何かを、もう感じてなかった。

国家に期待してなかった。

“この国はどうせ変わらない”“どうせ未来なんかない”──そんな無力感が染み付いてた」


「……期待されていない国家に、統治の正当性なんて、あるはずがない。

榊原の演説は、だから、“最後通告”だったんです。

『この国は、もう一人では立てない』って」


そのとき、初めてインタビュアーの声が入った。


姿は見えない。だが、低く落ち着いた声が、テーブルの向こうから届く。


──では、なぜ反乱が起きなかった?

──なぜ、クーデターも政変も起こらなかった?


海藤は目を閉じた。しばらくの沈黙のあと、ぽつりと語った。


「一つは、合法だったからです」


「法の裏付けは、徹底的に用意されていた。

外務省、法務省、防衛省……あらゆるルートを使って、

“主権の貸与”を合法的に見せる枠組みが作られていた」


「“移譲”ではなく、“貸与”──

主権を永久に手放すのではなく、一時的に“行使を代行させる”という形をとった。

これは憲法上の“統治権の委任”の範囲内に、ギリギリ収まると主張できる文面でした」


「そしてもう一つ──

この国には、武装蜂起できる人間なんて、もう残っていなかったんです」


言葉は静かだが、厳しい断定だった。


「教育、経済、社会構造……全部が、“反逆の仕方を忘れた人間”を育ててきた。

軍事的知識もなければ、思想的準備もない。

個人は分断され、社会的連帯も崩壊し、“異議申し立ての技術”を誰も持っていなかった」


「だから、“革命”は起きなかった。

ただ、“移譲”された。それだけのことでした」


長い、長い沈黙が訪れた。


録音機の赤いランプが、無言で点滅を続けていた。

まるでそれ自体が、かつてのこの国の“鼓動”であったかのように──

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ