第二十七章:国会に鳴る名――思想犯・榊原鷹彦
その日、国会中継を見ていた誰もが、息を呑んだ。
社会保障法改正案を巡る与党質疑の最中突如、場違いともいえる名前が呼ばれた。
「……また最近、“主権貸与論”なる危険思想がネットや地方自治体に蔓延していると伺っています。その中心人物――榊原鷹彦氏について、本政府としてどのように認識しておられるのか、総理、お答えいただけますか?」
質問に立ったのは、与党国防族の中堅議員・神山恭司。
表向きは冷静な質問だが、発せられた言葉は明確だった。
“思想犯”。
直接そうは言わずとも、国家に危険をもたらす「思想そのもの」を問題視する姿勢を、国会の公式記録に刻み込んだのだ。
その背景には、公安による「全国討論キャラバン」摘発の失敗があった。
本来、法令違反や過激な運動で摘発すべきところ、榊原陣営は合法的な枠組みに徹し、摘発は空振りに終わっていた。
その失策を糊塗するため、政治の側から「危険思想」として先にレッテルを貼り、世論を誘導しようとする動きが水面下で固まっていた。
国会という場で「名前」を出すことで、彼の存在を“国家レベルの脅威”として公認する。
それは法的根拠のないまま、社会的抹殺を狙う危険な政治手法だった。
質問された総理は、慎重な言葉を選んだ。
「現在、政府として特定の個人の思想信条について言及する立場にはありません。ただし、公共秩序を脅かす行動が確認された場合、関係当局が適切に対応するものと考えます」
言葉としては無難だったが、“公共秩序”という曖昧な表現の裏に、明確な敵視の意思がにじんでいた。
この質疑は当日のニュース速報で全国に報じられた。
「主権貸与論、国会で初議論」「危険思想家か? 政府沈黙」「公安監視下の論客、波紋呼ぶ」
一部メディアは榊原を「危険思想家」と断じ、過去の経歴や学生時代の言動まで掘り返して報じた。
ネット上では、
「思想で国会に呼ばれるとか戦前かよ」
「ついに本物の反逆者が出たか」
「でもちょっと話を聞いてみたい」
という賛否両論が飛び交った。
ただ、いずれにしても「榊原鷹彦」という名前は、初めて国民的知名度を得た瞬間だった。
海藤仁は、神田の事務所でその速報を目にし、言葉を失った。
橘綾子も、遠隔地の支援者会合から電話でこう漏らした。
「……これで、後戻りはできなくなったわね」
榊原自身は、ただ静かに草稿の修正版に目を落としていた。
「――遅かったな」
まるで、来るべき時が来ただけだと言わんばかりに。
この瞬間から、榊原は「思想を問われる存在」になった。
彼が何を語るか、何を語らないか――その一挙手一投足が、国家の枠組みに挑むかのように扱われる時代が、静かに、しかし確実に始まっていた。
榊原陣営の反撃は、単なる一過性のイベントで終わらなかった。
公開討論会や声明発表によって世間の耳目を集めた彼らは、次なる一手として「全国対話キャラバン」を打ち出した。それは単なる演説旅行ではなく、地方都市、大学、商工会議所、市民ホール、さらには過疎地域の集会所まで、草の根の対話を積み重ねていく「思想の種蒔き」の旅だった。
榊原本人はもちろん、海藤仁や橘綾子をはじめとする側近たち、さらには各地の読書会や支持団体の若手リーダーたちも次々とマイクを握り、討論の場に立った。彼らは「主権貸与政策」の理論的正当性を説くだけでなく、日本社会の停滞や制度疲労、国際環境の激変に対して具体的な危機感を訴え、人々の生活や未来像に訴えかける言葉を紡いだ。
討論会の模様はSNSや独立系メディア、インターネット配信を通じて瞬く間に拡散された。
一方で、既存の大手メディアは依然として榊原の動きを「過激思想」「国家転覆の扇動」「危険思想犯」として一方的に断罪し、反発する識者・有識者の声ばかりを取り上げ続けた。
しかし、草の根から生まれる熱気は、もはやメディアの報道統制だけでは抑えきれなくなっていた。
特に象徴的だったのは、かつての冷笑的な若者層が、討論会に自発的に足を運び始めたことだった。
彼らは政治に無関心でも無知でもなかった。ただ、既存の政治や報道に失望し、諦めていただけだったのだ。
榊原の言葉や、陣営の議論の姿勢に、彼らは「対話可能な政治」の兆しを感じ取っていた。
一方、政府・与党・公安庁は、この動きを重大な国家的脅威とみなし、次なる手を打つ準備を進めていた。
公開摘発事件以降、公安内部ではすでに榊原陣営の活動家や支援者への監視・警告が強化されていたが、ここにきて「思想犯取締」の法的根拠を強化する動きが本格化する。
いわゆる「思想安全保持法案」の草案が極秘裏にまとめられ、政権中枢ではこれを臨時国会での提出・成立を狙う声が強まっていた。
また、警察庁や内閣官房、安全保障会議でも、榊原陣営が国外の過激思想勢力と連携するリスク、あるいは外患誘致の疑惑までが取り沙汰され始め、世論誘導を兼ねた情報戦が仕掛けられていく。
保守系メディアでは、「榊原の背後に中国系資本がいる」「欧米の急進左派と接触している」「反グローバル主義を装ったポピュリズム扇動」といった根拠不明の疑惑記事が連日掲載された。
しかし、榊原はそうした攻撃に動じなかった。むしろ「政権の恐怖心こそ、私たちの正しさの証左である」と語り、陣営内部を鼓舞した。
橘綾子や海藤仁もまた、社会運動家として、戦略家として、状況を冷静に分析しつつ次なる手を練った。
榊原陣営は対話キャラバンに並行して、次なる声明発表を準備していた。
それは、単なる反論でも弁明でもない。
「新日本基本憲章(仮称)」――すなわち、主権貸与政策を中核とした、新たな国家の原則と社会契約を提示する草案だった。
この草案は討論会や読書会を通じて公開草稿の形で広く市民に意見を募り、改訂を重ねるプロセスを経る予定だった。
榊原は「主権貸与」という政策の先に、「国家のあり方」そのものを問い直そうとしていたのである。
この動きに政界は騒然となった。
与党内部でも「これはもはや単なる一議員の暴走ではない」「国家体制への挑戦だ」との危機感が強まり、榊原に同情的だった一部の中堅議員や地方政治家も沈黙に追い込まれ始める。
野党内でも賛否が割れ、リベラル系野党の一部はむしろ榊原批判を強めた。「彼は民主主義の敵か味方か」、世論も真っ二つに割れつつあった。
公安庁はついに次の一手として、「榊原鷹彦を国家転覆予備罪で立件する検討に入る」という情報を一部リークし、社会的緊張を高める。
それは、思想犯罪による政治弾圧という、戦後日本が一度も踏み込んでこなかった領域への第一歩だった。
そして、榊原陣営の次なる討論会の日程が公表された――
それは、東京都心、かつて彼が出馬して敗れた選挙区の中心地であり、国家権力の目と鼻の先での開催であった。
「国が黙らせようとするなら、その場所で語るまでだ」
榊原はそう言い放ち、静かに次の戦場へと歩み出していく。