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第二十二章:風が戻る場所

政治集会の熱気がまだ街角に残るある日、海藤仁の手元に一通の封書が届いた。厚紙の質感も、筆跡のない宛名も、どこか既視感があった。消印は新潟。海藤の指先は過去から伸びてきた見えない糸を辿るように封を開いた。


中にはA4用紙一枚だけ。印刷された文字は簡潔で冷たい。


「演説、拝聴しました。

変わっていないようで、変わってしまったあなたへ。

また会いましょう。

──綾子」


“綾子”の四文字に、海藤の呼吸は一瞬だけ止まった。

その名を最後に聞いたのは十年前。

榊原の選挙戦敗北から間もなく、理由を誰にも告げず、ふいに姿を消したあの女性。


橘綾子――榊原の最初の同志にして、最も信頼された秘書。

言葉で人を説得することに長け、静かな情熱と合理的な分析力を併せ持った陣営の“知性”そのものだった。


彼女は、“希望の挫折”を見届けるより先に、立ち去った。


榊原はかつて、静かにこう言ったことがある。


「綾子は“失望”ではなく、“見切り”を選んだのだ。

私では変えられないと、判断したんだよ」


そして今、再びその彼女が“戻ってきた”のか。


否――彼女はどこにも行っていなかったのだ。

ただ、静かに目を閉じていたにすぎない。


神田駅近くの小さなカフェ。窓際のテーブルに彼女はいた。


短く切り揃えられた黒髪、鋭い金属フレームの眼鏡。

かつての柔らかな印象は鳴りを潜め、無駄を削ぎ落とした都市型の輪郭が、そこにあった。


「……戻ってきたのか」


海藤の問いに綾子は紅茶を一口、黙って啜る。

そして、カップを置く音が響いたあと、ようやく静かに答えた。


「戻ってきたんじゃないの。私は、ここに“いた”の。最初から、ずっと」


「じゃあ、なぜ今?」


「あなたの声が、ようやく私に届いたから。あの演説……榊原さんの声じゃなく、あなた自身の“決断”が聞こえた」


その言葉に、海藤は何も言えなかった。

榊原の思想を支えていたつもりが、いつしか自分の言葉として語り始めていた――その自覚があった。


綾子は言う。


「天才は孤独を必要とする。榊原さんは誰よりもそうだった。

けれど、孤独に付き合うには支える者にも“孤独を抱える覚悟”が要るのよ」


「それが……お前には、なかった?」


「当時の私は、あなたほど強くなかった。それだけ。でも今なら分かるの。孤独と無関心は違うってこと」


彼女の言葉は、海藤の中の何かを震わせた。


数日後、綾子は正式に「未来政策研究読書会」の戦略顧問として復帰した。

だが、かつてのような“榊原の影”としてではない。

今の彼女は、“独立した戦略家”として、あくまで自らの判断と信念で動くことを選んでいた。


最初に行ったのは、榊原の街頭演説を徹底的に分解・再構成することだった。


「言葉は届いてる。でも、それだけじゃ“共鳴”しない。

そこに必要なのは、思想の“物語化”よ。信仰じゃない、物語が人を動かすの」


彼女は次々と動き出す。

•演説に感動した市民の証言を集め、ドキュメンタリー映像を制作し、SNSで拡散

•海藤の草稿解説を一般向けに書き直し、インディペンデント・ジャーナルに寄稿

•地方都市で「カフェ形式」の対話型イベントを立ち上げ、無党派層との接点を構築


綾子の手法は、緻密で演出的だった。彼女自身が語る。


「“思想”には限界がある。けれど、“生きられた物語”には、人を引き寄せる磁力がある。

私は、それを繋ぐ仕事をするつもりよ」


ある夜。静かな応接室のソファに、榊原と綾子は並んで腰かけていた。

再会の場に、必要以上の言葉はなかった。


「……久しぶりだな」と榊原が言う。


「ええ。あれ以来ね」と綾子。


彼女は、当時の沈黙の理由を初めて口にした。


「あなたの沈黙に、耐えられなかったの。声なき信念が、あの頃の私には理解できなかった」


榊原は、ふっと目を細めた。


「それでも……君は戻ってきた」


「いいえ。私は最初から、ここにいたのよ。ただ、“あなたの声”に、再び耳を澄ませられるようになっただけ」


二人はもう、主従ではなかった。

だがその距離感こそがこれからの運動を支える新たな均衡だった。


綾子の復帰は、陣営にとって単なる人事ではなかった。

それは、「理念をどう社会と結びつけるか」という問いへの、最初の答えだった。

•綾子は高村匠(公安の内部ブリッジ)との対話を模索し始める。

•市民討論会は“連帯”を生み、次第に「構想実現」の運動体へと変質し始める。

•与党内部では、強硬派と穏健派の対立が鮮明化し、“新たな対抗勢力”が台頭する。


榊原の声は、社会の周縁に小さな旋律を生みはじめた。

そして、橘綾子はその旋律に、言葉というハーモニーを重ねていく。


それは、沈黙から再び風が吹き始める瞬間だった。

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