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第二章:夜を裂く者

夜の大学構内は、静まり返っていた。

風が落ち葉をさらい、駐輪場の奥でパイプ椅子がかすかに軋む音だけが響いている。


人影はほとんどない。夜間講義を終えた学生たちは足早に最寄り駅へと向かい、学内は誰に見られることもない静寂に包まれていた。


そんな中──構内の隅にある、古びた講義棟の二階。

その教室に、ひとりだけ灯りが残っていた。


明かりの下に座っていたのは、榊原鷹彦。

黒髪を乱し、スーツの襟元をだらしなく緩め、六法全書を前にペンを走らせている。


──時刻は、22時10分。


この時間、校舎に残っている学生など本来はほとんどいない。

だが榊原にとっては、ここが唯一「勉強だけに集中できる」場所だった。

昼間は建設現場で足場を組み、セメント袋を担ぎ、鉄筋の結束作業に明け暮れていた。夜になってようやく大学へ通い、この場所で法律と対峙する。


彼にとって、この勉強は“防弾チョッキ”だった。


無知のままでは、国に殺される。

達也の死が、それを証明していた。


「お前、いつ寝てんだよ……」


後方のドアから入ってきた同級生が、冗談めかして声をかけた。

年齢は近いが、昼間は区役所に勤める公務員で、学費にも余裕があるらしい。


鷹彦は顔を上げなかった。

ただ、手元のページをめくりながら、小さく答えた。


「寝るより勉強した方が、殺されずに済むからな」


「……は?」


「この国は、知識のない奴から順番に殺されてくるんだよ。静かに、誰にも気づかれないようにな」


同級生は一瞬きょとんとしたが、冗談だと思い直して笑った。


「お前、ホント根つめすぎだって。ロースクールはマラソンなんだからさ」


だが鷹彦の目には、笑いの色はなかった。

彼の中で、この国は“競技場”ではなく、“狩場”だった。


榊原にとって“法律”は、正義を守るためのルールではなかった。

それは、国家がどのようにして人々を殺さずに殺しているのかを解明する分解図だった。


制度を破壊し、再構築するには、まず制度の設計思想を理解しなければならない。

だからこそ、彼は誰よりも民法と憲法の条文に執着した。

行政法を読み解くときには、条文の裏にある政治的意図を見抜こうとした。

統治構造の学習では、「この国はどうすれば“動かなくなる”のか」という観点からアプローチした。


ある夜、憲法の授業で教授がこう言った。


「日本国憲法は、国民の自由を保障するものです。ゆえに、国家の暴走を防ぐ役割がある」


その瞬間、鷹彦の手がピタリと止まった。

数秒の沈黙の後、彼はゆっくりと手を挙げた。


「質問していいですか」


「どうぞ」と教授が応じる。


「では教授、何もしない国家は、暴走とは言えませんか?」


教室が静まり返る。


教授は一瞬、言葉に詰まった。


「……どういう意味かね?」


「国民が死にかけているのに、行政が“法に従って何もしない”でいるとする。その結果、誰かが死んだ。それでも、国家は正しいとされるのですか?」


問いの裏には、明確な怒りが込められていた。

“責任の不在”をもって正義とするこの国の法体系への、皮肉と反逆。


教授はわずかに表情を曇らせたが、答えなかった。

代わりに、咳払いをして講義の続きを始めた。


そのやり取りを、教室の後方から静かに見つめていた人物がいた。


白髪交じりの老人。スーツの肩に僅かな埃。

学生にしては年齢が不自然に高く、存在感も妙に浮いていた。


その人物こそ──

後に榊原の政治的後見人となる元衆議院議員、蓮見静雄である。


彼はかつて「行政監視」の旗を掲げ、議会で官僚制度を追及していた改革派だった。

だが時代の逆風に押され、メディアと政敵に“変人”として葬られた。

今は表舞台を去り、老いた身でこのロースクールに籍を置いている。


その日、講義が終わると蓮見は廊下で鷹彦を呼び止めた。


「お前──政治をやる気はあるか?」


不意な問いだった。

だが、榊原の答えは迷いがなかった。


「……殺すなら、法より早い方がいいと思ってました。

でも、どうやら“政治”ってやつは、それよりもっと早くて、痛いらしいですね」


蓮見は表情を変えず、じっと榊原の目を見つめた。


「いい眼をしている。だが勘違いするな。政治とは“誰かのために死ぬ”場所ではない。“誰にも殺されずに生き延びるために、手段を選ばない”場所だ」


そう言って、彼は鷹彦に手を差し出した。


「国家を殺す気なら、その首を絞める手段を教えてやる」


そして──


その日を境に、榊原鷹彦の「復讐」は、法から政治へと、舞台を変えた。





夜の学食は、まるで校舎の片隅に取り残された遺跡のようだった。


テーブルの表面には小さな傷や染みが無数に刻まれ、古ぼけた蛍光灯が淡く辺りを照らしている。

22時半。人の気配はなく、厨房もすでに消されていた。

唯一、自販機の明かりが静かに壁を照らしているだけだった。


その片隅のテーブルに、ふたりの影が向かい合って座っていた。


榊原鷹彦と、蓮見静雄。


プラスチックカップに注がれた自販機のコーヒーからは、かすかな湯気が立ち昇っていた。

沈黙が数分続いたあと、榊原がカップに口をつけずに口を開いた。


「……蓮見先生は、なぜ政界を追われたんですか?」


質問というよりも、確信をもって尋ねる口調だった。

その言葉に、蓮見は目を細め、苦笑を浮かべた。


「珍しいな。人は大抵、“なぜ戻らなかったのか”と聞くんだがな。

お前は“追われた”と言った。……正しいよ」


そう言って、蓮見は椅子にもたれかかり、目線を天井に向けた。

どこか遠くの記憶を手繰るように、時間を遡るように、言葉を紡ぎ始める。


「俺が国会議員になったのは、1980年代の終わり。

バブルの頂点で、日本が世界を支配できると本気で信じてた頃だ。


俺は一貫して“地方自治”を主張してきた。

中央集権の構造が、地域の可能性を殺してるってな。


で、1990年代後半だ──

当時、俺は“地方主権連邦化法案”ってのを構想していた。


名前の通り、地方を“支配される存在”から、“統治の対等な当事者”に引き上げる法案だ。

霞が関の各省庁──とくに財務省と総務省──の権限を“国から委譲させる”っていう、かなりラディカルな内容だった」


榊原は静かにうなずいた。

憲法や地方自治法を学ぶ者なら、その構想がどれほど国家構造を揺るがすものかが分かる。


蓮見は続ける。


「最初は、党内の若手が賛同してくれた。

地方出身の議員にはウケが良かったし、経団連からも“分権”の流れには一定の支持があった。


だがな──

ある日を境に、空気が変わった。


まず、メディアが“改革派の過激論”として、俺の法案を報じ始めた。

NHKでの特集は放送直前に潰され、新聞各紙は“極端な地域主義”と断じた」


蓮見はカップを手に取ると、一口だけ啜った。

その顔は苦さにゆがんでいるのか、過去の記憶に苦しんでいるのか、判別しづらかった。


「わかるか? これは“スキャンダル”じゃない。“無視”なんだよ。

政治家にとって一番の死刑は、メディアに取り上げられないことだ。


記者が来なくなる。討論番組に呼ばれない。

『発言力のない政治家』というレッテルを貼られて、票も資金も消えていく」


榊原は静かに言った。


「見えない死刑執行ですね」


蓮見は微かに笑った。


「そう。俺は“政治的に殺された”。

手を下したのは、霞が関と、与党内の“官僚シンパ”だ。

財務省のトップが裏で糸を引いたという噂もあったが、証拠は残らなかった。

俺は国会の中で、“制度を変えようとした”だけで──

“制度そのもの”に排除された」


重たい沈黙が、テーブルに降りてきた。

外では風が吹き、木の葉がガラス窓にあたってかすかな音を立てた。


「だからお前に言っておく。“国家にケンカを売る”ってのは、“政府”に刃を向けることじゃない。

“制度の神”に逆らうってことだ」


「制度の神……」


「うん。選挙で落ちない奴ら。誰にも責任を取らずに政策を動かし、時には国民の命すらコストと見なす連中だ。

裁判所でも、メディアでも裁けない。だが確実に“国の方向”を握ってる」


榊原の背筋が、わずかに伸びた。

彼の中で、憎悪の形が──より明確な「敵の輪郭」を持ち始めていた。


蓮見はテーブルの下で、古い書類ファイルを鞄から取り出した。


封筒の中には、彼がかつて練り上げた「地方主権連邦化法案」の草稿が綴られていた。

紙の角はすり減り、字は手書きに近い部分もあった。

それは“死んだ法案”の遺骸であり、同時に“未完の地図”でもあった。


「この法案、俺が通すことはもうない。だが、内容は今でも通用する。

むしろ今の若い世代が“制度の限界”に気づいたとき、必要になる地図だ。

お前に、これを託す」


榊原は封筒を受け取った。

そして、しっかりと見据えて言った。


「俺の友人も、制度に“無視”されて死にました。

誰にも責任を問えない死。誰にも気づかれない終わり。

法では救えませんでした。だから、俺はもう救おうと思ってない。

今度は──殺す側に回ります」


蓮見は一瞬だけ目を見開き、やがてゆっくりと、わずかに口元を緩めた。


それは彼が政治を去って以来、初めて見せた“微笑”だった。


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