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第十六章:読み解く者たち

都内某所、大学構内にほど近い喫茶店「アカシア」。

古びた木製の看板にジャズが流れるこの店の奥のテーブル席に、高村匠はいつものように座っていた。


手元にあるのは、A4用紙にびっしりと綴られた草稿。「主権貸与政策──第四草案」。差出人は海藤仁。榊原鷹彦のかつての秘書であり、現在は「語り部」として各方面から証言を求められている人物だった。


だが、この草稿はどこにも発表されていない。学会にも出されていない。ましてや出版の予定もない。


それはあまりにも過激で、あまりにも現実を射抜いていた。


《未来政策研究読書会》。

その名は、表向きにはごく一般的な政策学研究サークルに過ぎなかった。


だが実態は違う。

この読書会では、榊原鷹彦が遺した草稿や講演録、日誌に至るまでが資料として使用されていた。そして参加者の誰もが、その思想に魅入られつつも、どこか怯えていた。


高村匠は、公安調査庁の若き分析官として、この読書会に「非公式に」参加していた。初めは潜入の意図があった。だが気づけば、彼自身が最も熱心な読者となっていた。


読書会は、大学助手、自治体議員、NPO関係者、若手官僚、フリーの記者、時には元自衛官までが参加する、雑多な空間だった。


「ここには肩書きはいらない。国家の“枠”を一度捨てなければ、国家を考えることはできないからだ」


そう語ったのは海藤仁だった。


「これは国家思想の手術書だ。国家の死を未然に防ぐための、根本的な処置の記録だ」


高村はある読書会の夜、そう語った。


彼は榊原の草稿を「憲法学の文法で書かれた臨床記録」と評していた。

法学部出身の彼にとって、榊原の文体は論理的で、思想の暴走とは無縁に見えた。


だが、公安庁内部では、その評価は裏切りと見なされた。


上司である公安第七部部長・佐伯は、ある日彼を呼び出した。


「君は自分が何をやっているか分かっているのか? 君の読書会資料はすでに査閲にかけた。榊原の草稿、そして君のまとめた分析……あれは“擁護”に近い」


「擁護ではありません。分析です」


「公安に必要なのは、分析ではない。隔離と制圧だ」


このやりとりののち、高村の業務は制限され、事実上の“閑職”へと回された。


そんな中、海藤は高村に一通の手紙を送ってきた。

それは手書きの便箋で、こう書かれていた。


「君の読解力には希望を感じている。

ただし、読み解く者は往々にして、国から最も危険視される。

それでも、読むことを止めないなら、会おう」


そして再び、「アカシア」で二人は会った。


「俺たちは、榊原の思想を守りたいわけじゃない。ただ、理解せずに“排除”するこの国の構造に、何か言わなければならないと思ってる」


「わかります。僕も、“理解しようとしただけで犯罪者になる”この空気に、居場所を失いつつあるんです」


その夜、高村は未発表草稿「国家とは何か──形式主権の再定義」を手渡された。


202X年冬。最後の読書会は、都内某所の地下会議室で開かれた。


参加者はわずか6人。全員が何らかの形で組織に睨まれ、職務上の不利益を受けていた。


会は静かに始まり、草稿の第七節《主権と安全保障の外部委任モデル》を読み進めていった。


「……“委任”とは、独立の放棄ではなく、主体的選択の結果であると榊原は述べている」


「形式的独立より、実質的統治を優先せよという思想……これはもはや、現行憲法の転覆に等しい」


「でも、俺は……読みながら、少し泣いたよ。こんな思想が、ちゃんと日本語で書かれているなんて思わなかった」


そのとき、外で誰かが物音を立てた。

すぐに会場を閉じ、資料はすべて焼却された。


それが、「未来政策研究読書会」の最終日となった。


数ヶ月後、高村は正式に公安庁から“特異思想対応班”への転属を命じられる。事実上の幽閉だった。


海藤は、一連の接触が報告され、彼へのマークも強化された。


だが、草稿は消えていなかった。


PDFのコピーは匿名クラウドに保存され、要約はSNSで静かに拡散されていた。

その読書会にいた一人が、別の場所で「小さな会」を開いた。

火は消えていなかった。


「僕は読み続けます。たとえ監視されても。

これは思想ではなく、現実の生き延び方なんです」

— 高村匠、読書会最終日に



この小さな読書会がやがて、日本の“思想史”にどれほどの影を落とすか、それはまだ、誰にも分からなかった。

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