第十五章:背信の読書会
かつて国会議事堂から遠く離れた、都内西部の区民会館。その一室で、月に一度だけ開かれる読書会がある。正式名称は《未来政策研究読書会》。だが参加者の間ではただ「読書会」と呼ばれ、記録も名簿も存在しない。公安内部の文書にもその名前はないにもかかわらず、この会は静かに、しかし確実にある思想を日本国内に浸透させ始めていた。
「今日は、榊原元議員の草稿、第三部『民主主義と形式主権の限界』を読みます」
開会の言葉を発したのは、公安庁第六課(思想対策・分析担当)所属の分析官、高村匠。公的には将来を嘱望された優等生だったが、今や彼はキャリアの頂点から敢えて逸れつつあった。
参加者は民間人の大学助手、地方議員、ジャーナリスト志望の青年、元自衛官など。彼らは体制側ではない。それでも高村は、彼らを「国内最後の自由の火種」と呼び、こう促した。
「榊原は、『主権は国民にあるが、形式的にしか機能していない』と明確に指摘します。それを補うために、主権の一部を外部に貸与する提案です」
会場に静寂が漂う。
自衛官出身の青年が皮肉を込めて問う。
「要するに、国家を売り渡すのか?」
高村は冷静に答える。
「いいえ、“貸与”です。一時的・明示的に機能を預けることで、制度疲労を治す。それはむしろ“治療”です」
彼は熱を込めて続けた。
「そして、この治療は“内側からは不可能”と判断したからこそ提案されたのです」
だがその熱意は公安内部では異端視され、冷笑の対象だった。
公安庁第五部会の会議室では、石神重明・部会室長が怒りを露わにしていた。
「高村の動きは許容を越えている。草稿の入手、非公の会合、外部との接触……すべてが危険だ」
彼は資料を机に叩きつけた。
「対象は榊原鷹彦だ。昨年、我々が“危険思想家”として初めてマークした男だ。主権を否定する思想は暴力に近い」
部会の幹部たちはうなずき、
「高村を監察に回し、内部から排除せよ」という結論に達した。
数日後、中野の地下喫茶店で高村は公安外の男と密かに会った。相対したのは、榊原の元秘書・海藤仁。民間に出た“歴史の証人”だ。
「あなたが……海藤仁さんですか?」
「君が高村匠か。公安の中にも曇りなく見てる奴がいたとはな」
高村は静かに頷き、草稿第四部のコピーを差し出した。海藤はそれを手に取り、ため息をつく。
「あの草稿は提出直前まで行った。“歴史を逆転させる最後の提言”だった」
高村は問い返した。
「なぜ表に出さなかった?」
海藤は答えた。
「出せば国家的に完全に断罪されると分かっていたからだ。政治的ではなく国家の枠組みでね」
高村の声に迷いはない。
「私は共鳴ではない。ただ、選択肢がないと知っている。民主主義の内的資源が枯渇しているのを、彼が誰よりも早く見抜いていたんです」
海藤はしばらく彼を見つめてから、問うた。
「…君は歴史の歯車になりたいのか?」
高村は静かに首を振って答えた。
「なりたくはない。ただ、“ならざるを得ない”瞬間があると知っているだけです」
公安上層部はすぐに高村への監視を強化し、読書会抑止と資料回収を命じた。しかし高村は怯まなかった。護送路ではリスクをかいくぐり、全国で“読書会”の開催を進めた。SNS情報も加え、動きは地中から沁み出すように広がっていた。
かくして、主権貸与政策は亡霊ではなく、新時代の旗印として、静かに芽吹き始めたのだった。




