補章:公安庁内に芽吹く“異端”
公安庁第三情報課。
この部門は、テロ対策・過激派思想・外国諜報活動を対象とする一方、
近年では「国内思想動向」の分析も業務の一部として含まれていた。
かつては過激な左翼運動の監視が主だったが、今は“言論”そのものが、
国家秩序に対する脅威として扱われる時代だった。
202X年秋、榊原鷹彦の講演草稿がアメリカで注目されたという情報が入ると、
公安庁はすぐに対応チームを立ち上げた。
責任者に任命されたのが、40代後半の白石弘貴――
かつて新左翼セクトの壊滅に関わった「現場主義」の叩き上げだった。
その白石の部下に、ひときわ異質な若手がいた。高村遼(27)。
東京大学法学部を首席で卒業し、公安庁へ進んだ異色の経歴。
学生時代は政治哲学を専攻し、フーコーやハーバーマス、
さらに日本の戦後思想に深く傾倒していた。
上層部からは「頭でっかちなインテリ」として軽んじられ、
現場志向の先輩たちには「分析に情緒が入りすぎる」と揶揄される。
しかし、彼の眼差しは常に静かで、誰よりも国家の“軋み”に敏感だった。
榊原の草稿が内部資料として回されたとき、
高村はそのPDFをプリントアウトし、自宅で何度も読み返した。
「……これは、革命じゃない。治癒だ。
この国の“制度疲労”に対する、劇薬的な処方箋だ」
高村は草稿の構成に驚いた。
感情的な言葉は排され、徹底して論理で編まれている。
“主権を貸す”という突飛な提案も、経済・軍事・文化・法制度の観点から
具体的に根拠づけられていた。
「これを“危険思想”で片付けるのは、あまりにも稚拙だ……」
翌週の分析会議。
白石が資料を前に言った。
「本件は“反体制的危険思想”と認定する。
榊原鷹彦は“無血クーデター型”の理論を提示している。
米側で取り上げられたことで、模倣者が国内に出るリスクがある」
そこで高村は、意を決して発言した。
「失礼します。
榊原氏の主張は、秩序を破壊するものではなく、
秩序を“乗り換える”ための理論的再構築です。
『主権』という制度の意味を再定義しようとしている。
危険ではありますが、敵意というより“処方”に近い」
室内の空気が一変した。
白石がゆっくり眼鏡を外す。
「君は……公安に向いてない。
政治哲学で国家を守れると思うな」
議事録には高村の発言は残されなかった。
高村は沈黙の中で動いた。
草稿を分析資料としてまとめ直し、同期の数名に見せ始めた。
その中には、法科大学院出身の女性分析官・三枝ほのかや、
元自衛官から転職してきた守屋仁といった“境界線にいる者”がいた。
ある夜、高村は数人を集め、オフレコで語る。
「榊原の思想が正しいかどうかじゃない。
彼は“国を構造から考え直そうとしてる”。
あれが拡散されれば、思想テロに近い効果が出るかもしれない。
でも同時に、今の日本にとって必要な問いでもある」
三枝:「……監視対象ではあるけど、思想犯として括るには違和感があるわね」
守屋:「俺は愛国者だと思う。ただし、危険な方向に進む可能性もある」
その“読書会”は非公式で、公安庁のどの記録にも残らなかった。
だが、そこでは確かに議論が芽吹きはじめていた。
やがて高村たちは、榊原の草稿をもとに、
類似思想の発展や、国内世論の潜在的支持層に関するレポートをまとめた。
その中で彼が注目したのが、SNSや大学自治会、地方議会で起きている“兆候”だった。
・地方市議が、榊原講演を「時代の転換点」と称した発言
・匿名掲示板で草稿の引用と独自解釈が流行
・中堅起業家たちの中で“共通の危機意識”が語られはじめている
これらは白石の目には「危険な兆候」と映り、
高村たちには「社会が言葉を求めている証左」に映った。
そのズレが、組織の中に“静かな対立”を生みはじめていた。
ある日、白石が高村を呼び出す。
資料を机に叩きつけて言った。
「お前、草稿の再解析なんて勝手にやってるらしいな。
お前の報告は、榊原を擁護するための“理屈づけ”にすぎん」
高村:「擁護ではありません。可能性の分析です。
今、日本は国家としての選択を迫られている。
榊原はその“ラディカルなモデル”を提示した。無視できる話ではない」
白石:「……公安は感情で動く機関じゃない。国家の“敵”を見つけ、制する。それが全てだ」
高村:「“敵”を思考停止で定義し続ければ、やがて国家は自分の中から敵を生むだけです」
沈黙。
数秒後、白石は吐き捨てるように言った。
「……君は、いつか現場に殺されるぞ」
ある夜、高村は外部で榊原の元秘書・海藤仁と接触する。
“公安の人間”でありながら、敵意ではなく関心を持って。
高村:「私は、榊原鷹彦という人間に“思想的なリアリティ”を感じている。
そして、私自身、この国に絶望しながら、それでも諦めきれない人間です」
海藤:「……君のような奴が、まだいたのか」
こうして、公安庁という巨大な官僚機構の中に芽吹いた“異端の火種”は、
海藤、榊原、そして外の小さな支持層と結びつき、
やがて“地下のネットワーク”へと変わっていく。




