第一章:春の葬式
2003年3月 栃木県小山市──
寺の本堂には、早春とは思えない冷気が漂っていた。まだ若く柔らかい桜の蕾が風に打たれて震える中、榊原鷹彦は、くたびれた黒のスーツに身を包み、焼香の列の後ろで黙って立ち尽くしていた。
本堂に響くのは僧侶の読経と、時折風で軋む木の戸の音。木魚のリズムは死者を送るにはあまりにも無機質で、まるでこの世からあの世への“処理”をただ淡々と済ませているようだった。
棺の中で静かに眠るのは、鷹彦の高校時代からの友人──瀬川達也。
22歳。死因は一酸化炭素中毒。アパートでガスを吸って、自ら命を絶った。
見慣れた顔だった。修学旅行で旅館の布団を奪い合って笑ったあのときと、何も変わっていないように思えた。けれど今、白い布団に横たわった彼は、どんなに呼びかけても目を開けない。唇は薄く、まるでこの国の空気の冷たさに慣れすぎたように色を失っていた。
「……真面目すぎだよ、お前」
榊原の口から漏れたのは、涙ではなかった。誰にも聞こえないような、かすれた独白。
その声には、哀しみだけではない、むしろ怒りがにじんでいた。
達也は、誰よりも誠実な人間だった。地味で目立たず、人付き合いも得意とは言えなかったが、コツコツと努力を積み重ねることにかけては、どんな秀才よりも優れていた。
大学では真面目に授業に出て、就職活動でも何十社という企業にエントリーシートを送り続けた。面接練習にも何度も付き合い、模擬質問にも的確に答えられていた。
しかし、結果は全滅だった。
理由は、表には出ない。
企業の人事は決して「実家が片親だから」や「地方のFラン大学出身だから」とは言わない。
だが、それが“見えない減点”として作用していることなど、鷹彦にも、達也にも分かっていた。
葬儀の前日、携帯に届いたメール。短い文面だった。
「何かがおかしい。でも、俺にはもう分からない」
「鷹彦、お前だけは、その何かを変えてくれ。俺には無理だった」
鷹彦はその文章を、何度も何度も読み返した。
最後の一文だけが、胸に棘のように刺さって抜けなかった。
焼香を終えた親族たちは、誰とも目を合わせず静かに列を崩していく。
誰も声を上げない。誰も涙を流さない。
ただ、仏壇の前で手を合わせ、形式的な挨拶を交わす。
背広姿の市役所職員が葬儀社と手短に手続きを済ませ、香典返しの袋が機械的に配られていく。
この国は、人が死んでも変わらない。
たとえ、それが不条理で、回避できた死だったとしても。
誰も怒らない。
誰も責任を問わない。
「運が悪かった」と、そう処理されていく。
そんな“静かな死”に、榊原は吐き気を覚えた。
死者が遺した問いに、誰も耳を傾けようとしない現実に。
彼の目には、すでにこの社会が死にかけているように映っていた。
本堂を出ると、春とは思えないほど冷たい風が榊原の頬を打った。
隣を歩く人の顔も、誰一人覚えていない。
ただ、空がどこまでも曇っていて、桜の蕾がまだ咲かない理由を、彼は理解できた気がした。
「……この国は、誰も殺さない。
でも、何もしなくても“殺す”ことができる」
そのつぶやきは、誰にも届かなかった。
だが、それが榊原鷹彦という男の“出発点”だった。
その日から、彼の胸に一つの芯が芽生えた。
それは「革命」などという美名ではない。
もっと冷たく、静かで、確かなもの──
「国家への復讐」
という名の、覚悟だった。