幕間三:後編
「“主権貸与”──国家の存在意義そのものを問う構想です。
あなたはそれを、いつ、どのようにして聞いたのですか?」
──インタビュアーの声は、あまりにも静かだった。
感情を押し殺すでも、追及するでもなく、ただ真実に触れようとするような音調。
その静けさが、かえって胸に刺さった。
海藤仁は、椅子にもたれたまま一度まぶたを閉じ、言葉の選び方を探るように口元を動かした。
机の上には、革表紙の手帳が一冊、置かれている。彼が官邸を離れる前夜に、自らの意思で持ち出した最後の私物だった。
「最初に、その言葉を聞いたのは……たしか、2026年の春だった」
海藤はそう言って、手帳の端を指で撫でながら、遠い記憶を呼び戻していく。
「参議院選に二度目の落選を喫した直後。
都内の事務所に残っていたのは、もう俺と、榊原だけだった」
──その夜のことは、忘れようにも忘れられない。
回想:2026年春 都内事務所
外は静かだった。
四月の夜風が、窓の隙間からわずかに入り込んでくる。
街の喧騒はすでに消え、事務所の中には蛍光灯の低い唸りだけが漂っていた。
榊原鷹彦は、事務机に一人向かい、黙々と何かを書いていた。
選挙戦を終えて間もないというのに、疲労の色は一切見せていなかった。
むしろ──静かに、そして確実に何かに燃えていた。
俺は、片隅で封筒を整理しながら、その横顔を盗み見る。
選挙戦を戦い抜いた男の、それも二度の落選を経た人間の顔ではなかった。
敗北にも諦念にも染まらず、ただ何かを見つめ続けている顔。
「……“主権”って、どこまでが国民のものだと思う?」
唐突だった。まるで、独り言のような声だった。
「は?」
思わず、作業の手を止めて顔を上げた。
榊原は、書きかけのノートを手元に置いたまま、視線だけを窓の外に向けていた。
東京の街灯が、彼の眼差しにうっすらと映っていた。
「国っていうのは、“存在”じゃなくて、“契約”だと俺は思ってる。
……国民と国家の間にある、信頼と責任の契約。
だとしたら、一時的に“その契約を代行させる”こともできるんじゃないか。
たとえば、“より機能している他国”に」
……最初は冗談かと思った。
だが、榊原の声に冗談の温度はなかった。
ただ淡々と──いや、驚くほど冷静に話していた。
「……つまり、それが“主権貸与”だと?」
「そう。“主権の時限的な外部移譲”。
外交や経済、行政プロセスといった機能を、他国の制度に委ねる。
けれど、それは“永続的な従属”ではない。
あくまで“回収可能な契約”にする。
国民の意思によって、期限を設定し、更新も解除も可能にする。
租借でも統治権委譲でもない。“契約による委託”。
新しい形の、国家主権のリデザインだ」
俺は言葉を失った。
正気なのか? と思った。だが、目の前の男の眼差しに狂気はなかった。
むしろ──
そこには“氷のような熱”が宿っていた。
感情を煽るような熱狂ではない。
理性の極限を突き詰めた末に辿り着いた何か。
論理の一点にだけ燃え続ける、青い火。
「……バカか、お前は」
言葉が反射的に口をついた。
だが、それは怒りではなかった。
理解できないことへの、直感的な畏怖だった。
「誰もそんなこと、理解しない。いや、理解されたとしても支持しない。
国を、他国に一部とはいえ“預ける”? そんなのは国家としての自殺だろ」
「でも、今のこの国の政治と行政は──“もう死んでいる”」
榊原は、そう言って微かに笑った。
諦めではなかった。その笑みには、確信と未来への構想があった。
その夜、事務所を出た俺は、近くのコンビニの前に腰を下ろし、缶コーヒーを握りしめていた。
いつもより苦味が強く感じたのは、コーヒーのせいではなかった。
「……やってられない」
思わずつぶやいた言葉は、半分は自分に、半分はあの男に向けたものだった。
だが、不思議だった。
このとき、俺の中にあったのは怒りでも絶望でもなかった。
ある種の“中毒”だった。
「……見届けなきゃならない」
なぜか分からなかった。
ただ、「これは歴史の分岐点になる」と──
どこかで確信してしまったのだ。
あれは、忠誠ではなかった。
むしろ、“距離を保ったままの従属”だったのかもしれない。
現在:インタビュー再開
「……だからこそ、今も俺は問い続けているんだ」
海藤は言った。
少し掠れた声で、だが自らに対して正直であろうとする声で。
「もしあの夜、俺が彼の構想を“否定”していたら……
この国は別の道を進んでいたかもしれない」
インタビュアーは少し身を乗り出した。
「──でも、あなたは止めなかった」
「止められなかったんだ。
彼の言葉には、あまりにも冷たい熱があった。
まるで氷のような炎だった。
じわじわと、こちらの論理を溶かしていく……」
沈黙が訪れた。
録音機の赤いランプが、小さく点滅していた。
無言の時間が、部屋を満たす。
「……あなたは、自身を彼の“共犯者”だと感じていますか?」
──海藤は、答えなかった。
だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁だった。




