幕間三:前編
「海藤さん。あなたが榊原鷹彦の“秘書”になったのは、いつ、どうしてですか?」
──そんな質問は、これまで何度も受けてきた。
けれど、私がそれに正面から答えたことは一度もなかった。
理由は簡単だ。答えようとすると、自分が何者だったのかという問いにまで立ち戻らされるからだ。
しばらく沈黙が流れる。
私は、机の上に置かれた古い手帳に指を伸ばし、ページの端に挟まれた細い付箋を探る。
その指先が、ある一節で止まった。
「……あれは、彼が二度目の落選をした直後だった。2025年の秋、参議院選挙の結果が出た夜のことだ」
あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。
榊原の事務所は、人気が消え、まるで葬式のようだった。
貼られたポスターの端がめくれかけていて、蛍光灯の光だけが白々と机を照らしていた。
彼は酒一滴も口にせず、支援者も帰ったあと、黙々と書類に目を通していた。
“敗者の夜”にふさわしくない、異様な集中力だった。
私は当時、政治記者を辞めたばかりだった。
新聞社の編集部で、報道の自由の名のもとに、どれだけの真実が“削られていく”のかに耐えられなくなっていた。
“自由”とは名ばかりの組織と、忖度と、空気。それに疲れ果てて、退職を決意した矢先だった。
そんなとき、大学時代の知人から電話があった。
「人手が足りていない政治家がいる。無所属で、ちょっと風変わりな男だけど……」
その名前を聞いたとき、数年前に司法セミナーで見た、あの奇妙な熱量を持った男の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
「……榊原鷹彦、か」
正直、驚いた。あれほど異端だった男が、まだ“選挙”という舞台に立ち続けていたとは。
だが同時に──妙な義務感のようなものを感じた。
この男の“敗北”を、ちゃんと見届けなければならない。
そう思ったのだ。
初めて彼の事務所を訪ねたとき、榊原は黙ったまま俺を見つめていた。
その視線は、敗者のそれではなかった。
「君、記者だったんだってな。じゃあ、“言葉の重さ”は知っているだろう」
唐突なその一言が、なぜか印象に残っている。
「手伝ってくれるなら、“イエスマン”じゃなくていい。
むしろ、俺を止める役目でもいい。中から見てくれ」
その瞬間、私は、激しい違和感と怒りに近い感情を抱いた。
──この男は、まだ前を向いているのか?
二度も落選して、世間からも笑われ、メディアにも相手にされず、それでも前を向いているのか?
思わず、皮肉めいた調子で言い返した。
「……あんたみたいな危険物に付き合うほど、俺もヒマじゃない」
榊原は、それでも笑った。
「危険物だから、火元に誰か必要なんだよ。火の扱い方を知ってる奴が」
内心、忠誠ではなく、好奇心だった
誤解してほしくない。
あのときの私は、別に“忠誠”を誓ったわけじゃない。
感動したわけでも、思想に共鳴したわけでもなかった。
ただ──
「この男がどこまで行くのかを、見たい」
そう思ったのだ。それだけが、私の中にあった。
秘書としての日々は、静かだが異様だった。
榊原は、毎日のように本を読み、資料を漁り、政策を自分で練っていた。
彼のノートには、毎晩のように制度設計の断片が書き込まれていた。
•票の重みを“年齢加算”ではなく“加齢割引”する方式
•国家の一部主権を“租借地”のように外部委託する草案
•財政権と人事権を徹底的に分離し、民主主義を再構成する構想
それは、もはや地方の無所属候補が考えるべき規模のものではなかった。
彼の思考は、常に「国家」単位だった。
だからこそ、私は何度も言った。
「──あんたの言ってること、誰も理解できないぞ」
榊原は静かにうなずきながら、決まって同じことを言った。
「分かってる。でも俺は先に行く。
追いついてくる奴が、いつか現れるまで」
私は、録音機の赤いランプを見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「……正直、今でも分からないんだ。
俺は“秘書”だったのか、それともただの“見届け人”だったのか」
一瞬、記者の手がメモを止めた。
「でもね、一つだけ確信を持って言えるのは──
あのとき、あの男のそばにいたことを、俺は一度も後悔していないってことだ」
たとえそれが、国家を揺るがす“危険物”のそばだったとしても。
いや──だからこそ、だ。