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第九章:越境する思想

2021年の初め、まだ冬の匂いが街の隅に残っていたころ。

榊原鷹彦という名前は、日本のメディア空間において、ほとんど“消えかけた火種”のように扱われていた。


あの年の正月特番では「2020年を振り返る泡沫候補列伝」なる皮肉な特集が放送され、司会者とコメンテーターたちが、政治に絶望した男たちを見世物のように語っていた。

そこに、榊原の名は挙げられなかった。だが、彼を思わせるエピソードがいくつか読み上げられた。明らかに、暗に彼を揶揄していた。


だが、その年の春先、まったく異なる領域から――国境を越えた先から、彼の名前が再び浮上することになる。


すべての発端は、ある英文論文だった。


タイトルはこうだった。


“The Illusion of National Sovereignty in a Post-Aging Society”

(超高齢社会における「国家主権」という幻想)


著者名は“Takahiko Sakakibara”と記されていた。

しかし、この論文の草稿は、私――橘綾子が構成し、翻訳したものである。

ベースになったのは、榊原が過去の読書会や地方講演で語った断片的なスピーチやメモだった。


それらを丹念に拾い上げ、構造を整え、一本の論文として仕上げた。

当初は“どこにも届かないだろう”という諦念のような気持ちがあった。

だが、少なくとも「世界のどこかで似た未来を懸念する人間がいるかもしれない」と、どこかで信じたかった。


論文の主題は単純だった。

高齢化が進行する社会において、民主主義は「過去に生きる人々の合意形成装置」と化し、

若年層や未来世代の利害を正当に反映することが困難になっている。

この構造的な問題は、制度改革だけで解決できるものではなく、

「主権」の再定義そのもの――つまり、誰のために、誰によって国家があるのかという哲学的な問い直しを迫る。


それは、国家そのものの存続理由を根底から問う危険な問いだった。


私たちは、この論文を比較的小さな国際政治雑誌に投稿した。

読者層は限られていたが、専門性と思想的尖鋭さには定評のある雑誌だった。


そして、まさに偶然とも言えるような形で、ある読者の目に留まった。


スタンフォード大学アジア研究センターの若手研究員が、その論文をブログで取り上げた。

その記事が、学術系のTwitterユーザーの間で急速に拡散される。


最初は、あくまで知識人コミュニティの内部での話題にすぎなかった。

だが、その中で語られた言葉が、多くの読者の関心を捉えた。


“This is a sovereign suicide.”

(これは、国家主権の自殺だ)


“Japan as a post-democratic experiment?”

(日本はポスト民主主義の実験場なのか?)


こうしたセンセーショナルな見出しが、さらに注目を集めた。

皮肉なことに、榊原が国内でどれだけ理路整然と語っても届かなかった言葉が、

英語に訳され、海を越えることで、ようやく“未来の警告”として認識されたのだ。


数週間後、ワシントンD.C.に拠点を置く新興のシンクタンクから、榊原にオンライン講演の依頼が届いた。

招待文には、こう記されていた。


“Your perspective is radical, possibly dangerous—and extremely interesting.”

(あなたの視点は、過激であり得るし、危険かもしれない。だが、極めて興味深い)


その依頼文を読んだとき、私は思わず笑ってしまった。

“興味深い”――日本では、彼の発言がただの“危険思想”としてラベリングされて終わっていたのに。


講演は、都内の片隅にあるレンタルオフィスで行われた。

回線は不安定だったが、彼の言葉は淀みなく画面越しに流れた。


「日本では、“主権”が老いに呑まれている。

民主主義が“将来世代”ではなく、“過去世代”のために機能している。

それはもはや、民主主義と呼べるのだろうか?」


榊原は、淡々と語った。だが、画面の向こうの政策担当者たちの表情は真剣だった。


私はモデレーターの横で、チャットウィンドウに飛び交うコメントを読んでいた。


“Could this apply to the US in 2050?”

“What mechanisms could ensure future representation?”

“Is demographic sovereignty a viable concept?”


まるで、彼の思想が“日本特有の奇形”ではなく、“先進国全体の未来形”として捉えられているかのようだった。


講演から一週間も経たないうちに、ワシントンのシンクタンク関係者から非公式の連絡が入った。

「将来的に、日本の国家改革を議論する“仮想プロジェクト”に協力してほしい」

そうした趣旨だった。


つまり、“日本が国家主権を他国に貸し出すとしたら?”という前提に基づいた、

架空の政策実験シナリオをつくるプロジェクトだった。


表向きはあくまで知的エクササイズ――だが、裏には明らかに「対中戦略」「日米関係」「人口政策」といった現実的な思惑が絡んでいることが、行間から透けて見えた。


それを聞いた榊原は、ほんの少しだけ口元をほころばせ、こう言った。


「やっと……話ができる相手が出てきたな」


それは皮肉でも歓喜でもなく、ただ静かな確認のようだった。

彼にとって、「思想が言語として成立する場」があるか否か――それこそがすべてだったのだ。


榊原鷹彦は、日本国内では“売国奴”と呼ばれ、

その思想は“現実離れした陰鬱な空想”として笑い飛ばされてきた。


だが、国外では“未来からの声”として扱われた。

そのギャップは皮肉でしかなかった。けれど、彼にとっては、むしろ自然だったのかもしれない。


あの人は、最初から**「この国の外から、この国を見つめる」**という視点を持っていた。

それは、冷たく突き放すのではなく、どこまでも絶望せずに向き合おうとする意志でもあった。


私は思う。

彼の思想が、ようやく「対話できる相手」を得たのは、皮肉ではなく、必然だったのではないかと。


そしてそれは、この国が自ら耳を塞ぎ、沈黙のうちに彼を追いやったことの――

何より雄弁な証明でもあった。

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