第八章:耳を澄ます者
たしかに──あの時期の榊原鷹彦は、孤立していた。
それまで彼をかろうじて政治の「枠組み」に接続していたもの──
旧知の支援者、大学時代の恩師、そして蓮見静雄という保守派の重鎮──
そのすべてを失った後の彼は、政治の世界から見れば「敗北者」に過ぎなかった。
私が正式に榊原チームに加わるのは、もう少し後のことだ。
だが今振り返れば、あの時期の彼の言葉や行動、残された断片的な記録の数々には、すでに彼の“根”があった。
一度すべてを失った人間が、ゼロから何を見て、何を選び直そうとしていたのか──
それを今、記録として残しておく意味は、きっとある。
2019年、冬。
秋の選挙に落選した榊原は、すべてを片づけ終えた後、東京を離れた。
向かった先は、栃木県小山市。彼が生まれ育ち、政治家としての理想とはまるで縁のなかった土地だ。
都内の支援者の一人が、「政治家って、東京で人脈作らなきゃ始まらないんじゃないですか?」と尋ねたとき、榊原はふっと笑って、こう答えたという。
「人脈なんて、腐るほど見てきたよ。
でもな──誰も“この国を立て直す方法”は知らなかった。
だったら、一から考えるしかないんだ。答えは、地べたにある」
その言葉が、本気なのか、やけなのか、当時の誰にもわからなかった。
彼は地元で目立った政治活動をしたわけではなかった。
選挙事務所を再開するでもなく、演説をするわけでもなかった。
榊原が始めたのは、社会の「再調査」とも呼べるような行動だった。
地方の中小工場、農協の支部、過疎化の進んだ自治体職員の窓口、高校の進路指導室、閉院間際の診療所……。
どれも、政治家がふだん足を運ばないような現場ばかりだった。
彼はスーツではなく、作業着やジャンパーを着て、職員と並んで書類を運び、老朽化した冷蔵庫の下をのぞき込み、農業法人の会議に同席した。
「東京じゃ、誰も“本当の日本”を見てない。
みんな、“東京製のニセモノ”の中で政治ごっこしてるだけだよ」
後に残された手帳の走り書きには、そんな言葉もあった。
新聞は彼を取り上げなかった。政党も、古い支援者も、いつのまにか彼の名前を忘れていた。
だが、彼の周囲にはゆっくりと、奇妙な人々が集まり始めていた。
元・改革派官僚、自治体を追われた元首長、政党を離党した若手議員、大学を去った学者、落選経験を持つ地方議員。
誰もが、現行の制度や勢力図の中では「異物」とされ、居場所を失っていた者たちだった。
彼らにとって、榊原の言葉はまだ“形になっていない思想”だった。
だが、だからこそ「一緒に探る余地」があった。
私が初めて榊原と会ったのは、そんな時期に開かれていた非公開の小さな勉強会だった。
場所は都内の貸し会議室。人数は十数人。
私も、中央官庁を離れ、ちょうどどこにも属せない状態だった。
その会では、誰かがこう尋ねた。
「榊原さんは、保守なんですか? それともリベラルですか?」
一瞬の沈黙。
その場の全員が、その質問の単純さに失望しかけていた。
だが、榊原は軽く頷き、こう言った。
「……俺は、絶望から始める政治をやりたいんです。
希望なんかじゃない。期待でもない。
絶望を共有するところから、ようやく現実が始まる」
その言葉に、場の空気が変わった。
静かだった空間に、何か冷たい波のようなものが走った。
榊原は、地方の現場で見たものを淡々と語った。
インフラが老朽化しても誰も修繕しようとしない自治体。
目を合わせず話す高校生。倒産寸前の零細工場の社長が、政府の補助金資料を読み上げるときの絶望的な口調。
都会では「改革」とされている施策が、地方ではただの負担になっていた現実。
「民主主義ってのは、実は“犠牲”の物語なんだよ。
誰も傷つかない政治なんて、幻想なんだ。
政治ってのは、本来“誰がどこで、何を我慢するか”を決める行為なんだよ」
その言葉は、参加者の中でも賛否が分かれた。
一部には「冷たい」とか「ニヒリズムだ」と反発する声もあった。
だが同時に、それまでの“建前ばかりの政治言語”に疲れ切っていた人々は、榊原の異質な語り口に、静かな衝撃を受けていた。
「保守でもなく、革新でもない」
「改革派でもなく、破壊者でもない」
「夢ではなく、損得の計算でもない」
──そんな、どこにもカテゴライズできない政治的立場が、静かに芽生えはじめていた。
あの頃の私は──
私自身もまた、絶望していた。
中央官庁で経験したジェンダー政策は、数値目標とポスターだけで中身がなかった。
組織の上層は、女性の名前を利用することしか考えていなかった。
「実態に踏み込もう」と提案すれば「空気が悪くなる」と牽制され、最後には役所の片隅で報告書を書くだけの日々が続いていた。
私は、政治を信じていなかった。
政策も、官僚制も、政党のどれにも希望を見出せなかった。
そんなとき、榊原鷹彦は、私に何も約束しなかった。
ポストも、給料も、キャリアの保証も。
ただ、目をまっすぐ見て、こう言った。
「君の絶望は、俺の武器になる」
その言葉を聞いたとき、私は初めて、政治が“誰かの叫び”から始まるものかもしれないと、思った。
あれが、私が榊原鷹彦についていくと決めた瞬間だった。
最初に「社会の反応」が届いたのは、意外な形だった。
2020年の春。朝刊の片隅に載った一本の記事が、すべての始まりだった。
《敗者の暴論──“絶望から始める政治”とは何か?》
(某全国紙・政治面)
記事は、明確に名前こそ記していないものの、誰が読んでも榊原鷹彦を想起させる文脈で書かれていた。「地方で極端な国家観を語る元候補者」「既存の政治的枠組みに収まらない危険思想家」。
巧妙に仮面を被った中傷だった。だが、行間から溢れる意図は明白だった。
――社会の中で、異端者を芽のうちに摘む。
それは批判ではなく、“予防的バッシング”だった。
SNSの断罪と歪曲
それから間もなくして、ある地方講演での榊原の発言が、切り抜きというかたちでSNSに拡散された。
「この国は老人によって静かに滅びていく」
「若者が沈黙する民主主義に、未来はない」
その言葉の背後にあった議論の背景も、人口動態の実証も、聞き手との応答も無視された。
「言葉だけ」が独り歩きを始めた。
たちまち怒号と皮肉がネット上を覆い尽くす。
•「老人差別を公然とやる気か?」
•「滅びるのはお前の思想だろ」
•「一度落ちたくせにまだ政治家気取りかよ」
ネット上の炎上はやがてテレビへ波及した。
ワイドショーは、“次の政治的珍獣”を求めていた。
スタジオの出演者たちは、半笑いで彼の言葉を引用し、「これはちょっと極端すぎるよねぇ」と面白おかしく消費していった。
榊原鷹彦は、嘲笑の対象として、社会の「無関心の防波堤」を崩していった。
だが、それは彼を「理解する」という方向ではなく、
「監視対象」として社会が彼を注視し始めたことを意味していた。
私自身がその視線の変化に気づいたのは、ある日、書店の雑誌棚の前に立っていた時だった。
《極論主義者たちの肖像──「民主主義疲れ」世代の危うさ》
小見出しに、私の横顔の写真が載っていた。
講演会の記録だろうか。無断撮影にしては解像度が高すぎた。
「なんで……私が……?」
本のページをめくる指が震えた。
名前こそフルでは書かれていなかったが、研究領域や出身大学を辿れば、特定は容易だった。
私だけじゃない。勉強会に出入りしていた若手官僚、地方公務員、元省庁職員、大学院生たち。
それぞれの氏名や顔写真が、いつの間にか匿名掲示板や“まとめ系”ニュースサイトで晒され始めていた。
ある若手医師は、家族から強く反対され、退会を余儀なくされた。
元防衛省の政策スタッフは、「公安が動き始めてる」と小さな声で言い、姿を消した。
私たちはまだ何もしていなかった。思想を共有し、議論していただけなのに。
榊原の沈黙
ある晩、私はとうとう榊原さんに尋ねた。
気温は下がり、ビルの谷間の風が冷たい日だった。
榊原さんは、喫煙所の壁に背を預けて煙草をくゆらせていた。
「……世間は、あなたを“狂人”として見てる。
どうして、何も言い返さないんですか?」
しばらく煙が風に流れたあと、榊原さんはぽつりと呟いた。
「“言い返さない”んじゃない。……まだ、届く相手がいないだけだ」
その声には怒りも悔しさもなかった。
ただ、徹底的な孤独が宿っていた。
「この国は今、“対話できない国”になってる。
誰もが自分の意見を叫ぶだけで、人の話を聞かない。
そんな場所で、正論も理想も意味を持たない」
煙草を消しながら、榊原さんは続けた。
「だったら……沈黙もまた、武器になる。
叫び声のなかでは、沈黙のほうがよく響く時があるからな」
彼のその沈黙は、決して敗北の姿ではなかった。
それは、「対話が可能になる時まで、言葉を温存する」という意志の証明だった。
あの頃、私は毎晩「これは正しいのか」と自問していた。
正論は通らず、善意は笑われ、誠意は利用される。
そんな世界で、何が「政治」なのか、何が「国家」なのか、私には分からなくなっていた。
だけど榊原鷹彦は、沈黙の中でも、一歩も引かなかった。
罵倒されても、黙殺されても、歪曲されても、怒鳴り返さなかった。
ただ、問い続けた。「この国は、どこへ向かっているのか」と。
その沈黙の中にこそ、私は“本物の意志”を見た。
喧騒の中で言葉を失わずにいられる人間。
それが、私にとっての“指導者”の条件だった。
だからこそ、私は信じるしかなかった。
狂気と紙一重のその思想を。
孤独の中で熟成されていく、そのビジョンを。
たとえ、世界中が彼を嘲笑しようとも――
私は、彼の沈黙を信じていた。