第七章:敗北の夜、そして別れ
2019年秋。しとしとと降り続く雨のなか、榊原鷹彦は一人、世田谷の閑静な住宅街に立っていた。
右手には黒ずんだ封筒。中には落選証明書の写しと、党から送られてきた「ご健闘を祈ります」の文面だけの定型通知。左手には傘もささず、濡れたままのスーツの袖。足元の革靴は泥にまみれ、選挙事務所の残務を終えたそのままの姿だった。
彼の視線の先には、一軒の古びた邸宅。重厚な門扉の向こうに、かつての恩師──蓮見静雄の家があった。
呼び鈴を押す音に反応して、玄関の奥からゆっくりとした足音が近づいてくる。
「……入れ。風邪を引く」
その声は、かつて国会で鋭い論陣を張り、改革の旗手と讃えられた男のものとは思えないほど、掠れていた。
ドアが開くと、蓮見静雄が杖を頼りに立っていた。痩せた体にゆるい部屋着。白髪は無造作に伸び、眼鏡の奥の目はどこか遠くを見ていた。病気や老いではない。むしろ「時代の後退」という見えない風雪に、魂がすり減っていた。
榊原は無言で会釈し、蓮見の招きに従って家の中へと足を踏み入れる。
応接間に通されると、榊原の鼻腔に木の香りがかすかに漂った。
蓮見が長年使ってきた書斎。幾百の書物と、色褪せた新聞の切り抜きが棚に詰め込まれている。かつて若き日の榊原が「師」と仰ぎ、語らい、政治を学んだ場所だった。
蓮見は静かに湯を沸かし、二人分の茶を盆に載せて運んできた。
その動きは年老いた獣のようにゆっくりと、慎重だった。
「……悪かったな。支援を打ち切る形になって」
その一言で、茶の湯気が不意に冷たく感じられた。
榊原は一瞬、言葉を飲み込んだ。
だが、感情を飲み込んだのはそれだけではなかった。
彼の中には悔しさも怒りも、無念もあった。だが今、それをぶつけることには何の意味もない。
彼は、ただ頷いた。
「分かっています。……俺が未熟だっただけです」
言葉の端に自嘲が滲んだ。
選挙に出て、街頭に立ち、声を枯らして訴えた。
だが誰にも届かなかった。ポスターの前を通り過ぎる有権者たちは、彼の理念ではなく、有名人の推薦や、党の看板にだけ関心を寄せていた。
高邁な理想は、あまりにも時代の空気に馴染まなかった。
蓮見は湯呑に口をつけ、目を伏せながら言った。
「君は正しいことを、正しすぎるほど言った。
だが、政治家に必要なのは“納得”を売る技術だ。
正論は、時として人を黙らせる。だが、納得は人を動かす」
その声には、かつての冷静な指導力が微かに残っていた。
しかし、そこにあったのは叱責ではなかった。どこか、自分自身への悔恨が滲んでいた。
「先生……俺は、信じてたんです。
あなたの言葉に、あなたの“理想”に。
それを、次の世代に託すっていう、あなたの約束に」
榊原の目が揺れていた。蓮見の言葉は確かにあった。
かつての講義室で、控室で、幾度となく語られた「民意とは何か」「政治家の矜持とは何か」。
だが、いま目の前にいる蓮見静雄は、それらを語った男とは思えないほど、どこか空虚だった。
「……私も昔は、そう思っていた」
蓮見はゆっくりと顔を上げ、そして小さく笑った。
「だが……もう私には分からない。何が正しいのか。何が“国のため”なのか」
窓の外では、雨が途切れなく降り続けていた。
「この国は老いたんだ。変わることに、疲れ果ててしまった。
かつて私が夢見た改革は……おそらく“間に合わなかった”んだろうな」
その言葉は、榊原の胸を突いた。
静かな部屋に、時計の針の音が響く。
榊原は、深く息を吸った。
「……だったら、俺がやります。
先生が途中で諦めたなら、俺がやり遂げます。
俺は……俺だけは、この“おかしくなった国”を、見捨てたくないんです」
一瞬、蓮見の瞳に光が戻った気がした。
それは、長い間忘れ去っていた“火”のようだった。
「君は……若い頃の私によく似ている。
同じように熱くて、真っすぐで、……そして、少し危うい」
蓮見は杖をつきながら立ち上がり、背を向けた。
「──だからこそ言っておく。
ここから先は、もう“私の弟子”として歩くな。
君は君自身の意志で歩け。責任を背負え。
でなければ、“この国”という獣には、喰い尽くされるぞ」
沈黙の中、榊原は立ち上がり、深く一礼した。
頭を下げたままの彼に、蓮見は一つ、静かな笑みを向けた。
それは、もはや恩師の微笑ではなかった。
理想と信念に背を向け、老いていく一人の政治家が、若き日の自分に別れを告げる微笑だった。
雨の音だけが、部屋の外で続いていた。
その夜、榊原鷹彦の中で、何かが音を立てて変わった。
恩師の背中に見た「挫折」は、彼にとって“人間の限界”ではなく、
むしろ“乗り越えるべき壁”に変わった。
彼はこの夜を、生涯忘れなかった。
そして、十年後。
榊原は蓮見が決して踏み込めなかった“禁断の領域”へと、自ら足を踏み出すことになる。




