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守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章①

◯1618年(万暦46年)


 袁崇煥えん・すうかんは、35歳を迎えていた。この年、彼の人生にとって大きな転機が訪れようとしていた。科挙かきょの最終試験である殿試でんしを受けるため、彼はついに北京ぺきんの試験場に足を踏み入れた。


 「北京か……」


 彼は独り言を漏らしながら、古びた木造の宿舎に向かって歩いていた。朝廷から選ばれた官僚たちが、ここで一堂に会して試験を受ける。試験の合格者が次のステップである官職に就く。袁崇煥もその一人だ。


 その日、試験を前にして、彼の心は決して軽くなかった。だが、顔には一切の不安を見せない。彼は背筋を伸ばし、ふと弟の顔を思い浮かべた。


 「ふっ。奴も喜んでいるだろうな。」


 弟は、袁崇煥が試験に合格することを信じて疑っていなかった。東京とうきょうから北京への旅の間も、何度も何度も「兄貴なら絶対合格するさ」と励ましてくれたものだ。だが、袁崇煥は、その言葉にあまり頼りたくはなかった。試験の合格は、単に実力だけでなく、運とタイミングも左右するものだ。それを彼はよく知っていた。


 殿試でんしとは、科挙の最終段階であり、皇帝こうてい自らが試験官となる非常に厳格な試験だ。試験の内容は、官僚として必要な教養を問うものであり、政治、文学、歴史などの広範囲にわたる知識が要求される。そして、試験を通過した者は、正式に官職に就く資格を得る。


 「さて、始めるか。」


 袁崇煥は、試験会場に足を踏み入れた。中に入ると、すでに他の候補者たちが席に座り、集中している様子が見受けられた。その光景を見て、袁崇煥は心を落ち着け、深呼吸をした。


 「試験とは、何も恐れることはない。」


 彼は心の中で呟き、自分を落ち着かせた。試験が始まると、主試験官である皇帝の代行官が口を開いた。


 「皆、準備はよいな。今日の試験は、学問の深さだけでなく、物事に対する考え方も重要だ。思慮深く答えよ。」


 試験が始まると、問題は次々と出題され、彼は全力で答えていった。それぞれの問題に対して、簡潔で鋭い答えを導き出す袁崇煥。長年の勉強と経験が、彼を支えていた。


 数時間後、試験が終了した。


 その後、袁崇煥は宿舎に戻り、少しの間、答え合わせをしてみた。解答に不安はなかった。合格を確信していた。


 「ふっ、弟よ、待ってろよ。すぐにいい報告をしてやるからな。」


 彼はそう呟くと、手紙を用意し、弟に伝えるべく待った。


 数日後。


 試験の結果が発表される日がやって来た。北京の街は、試験を受けた人々の動揺と興奮でざわめいていた。袁崇煥も、ついにその時を迎えた。


 会場に着くと、試験の合格者の名が書かれた掲示板が目に入る。


 「袁崇煥えん・すうかん進士しんし。第2甲、第72位。」


 彼は、心の中でガッツポーズを決めた。


 「やった。」


 声に出さず、内心で喜びを噛みしめる袁崇煥。その瞬間、背後で弟の声が聞こえた。


 「兄貴、合格だろ!?」


 振り返ると、弟が嬉しそうに駆け寄ってきた。彼の目は輝き、顔は笑顔で溢れていた。


 「合格したな。」


 袁崇煥は、弟の無邪気な笑顔を見て、思わず笑った。


 「お前もさすがだな。ほら、祝いの酒をくれ。」


 弟は、少し照れた様子で答えた。


 「いや、兄貴が合格したんだから、俺も心底嬉しいよ。さあ、宴だ、宴!」


 そして二人はその後、北京の街で盛大に祝いの酒を酌み交わした。


 「これで、俺も正式に官職に就ける。」


 「やっぱり兄貴はすごいな!」


 そう言って、二人は長い一日の終わりに、ひとしきり笑い合った。



◯ 1618年(万暦46年)

袁崇煥えん・すうかん進士しんしとして見事に科挙かきょの最終試験に合格した。その栄光は、彼に無数の縁談をもたらした。


 「まさか、こんなにも速く縁談が来るとはな。」 


 袁崇煥はため息をつきながら、机の上に広がった縁談の手紙を見つめていた。これらの手紙の中には、名家の娘たちからの申し出が並んでいる。袁崇煥にとって、それは名誉であり、また責任でもあった。だが、彼は心の中で一つだけ決めていたことがあった。


 「どれもこれも、結婚するには…」 


 そう思いながら手紙を見ていると、弟の袁崇文えん・すうぶんが部屋に入ってきた。


 「兄貴、あんまり深刻な顔してると、嫁が来る前に顔にしわが増えるぞ。」


 弟はにやりと笑いながら言った。彼は年下で、どこか不真面目なところもあるが、兄のことをよく理解していた。


 「はは、分かってるさ。」袁崇煥は軽く笑いながら、弟の方を向く。「それで、誰かおすすめはあるか?」


 弟は一枚の手紙を取り出して、兄に手渡した。「これだ。黄青桂こう・せいけいという女性だ。名家の出で、美しさもさることながら、家族も立派らしい。」


 「黄青桂こう・せいけい?」袁崇煥はその名前を繰り返し、深く考え込む。「聞いたことがない名前だが、どうやらただの美人ではないようだな。」


 弟はさらに詳しく説明した。「うむ、この女性はただの良家の娘じゃない。家系も古く、賢いと評判だ。しかしな、兄貴、どうだ、結婚式の詳細も決まったんだぞ。」


 「結婚式?」袁崇煥は驚きの表情を見せる。「いつ決まったんだ?」


 「昨日だよ。準備は万端だってさ。あとは、兄貴がその気になればすぐにでも式を挙げられる。」


 「急すぎるだろう。」袁崇煥は少し戸惑いながらも、心の中で一つ決心した。「だが、これも運命だ。縁があったということだろう。」


 袁崇煥はしばらく考えた後、決意を固めた。「よし、ならば結婚式を上げることにしよう。これからの人生を共に歩む相手ならば、黄青桂こう・せいけいがふさわしい。」


 弟は嬉しそうに拍手をした。「さすが兄貴! それにしても、結婚式の準備は大変だぞ、兄貴がしっかりと祝儀を出すのを期待してるからな。」


 袁崇煥は弟の冗談に少し笑いながらも、その心には新たな人生の一歩を踏み出す覚悟が決まった。


 数日後、華やかな結婚式が北京で執り行われ、黄青桂こう・せいけいとの結びつきが正式に結ばれた。袁崇煥は新たな家庭を持ち、これからの官僚としての道を歩むことになる。



◯1618年(万暦46年)


 袁崇煥えん・すうかんは、福建ふけん地方の任地に赴任することが決まった。名誉と責任を背負った官僚としての第一歩。だが、何かが胸に引っかかっていた。どこか、気が重い。赴任前に、妻・黄青桂こう・せいけいの実家に挨拶に行くことになった。


 「崇煥すうかん、少しは緊張しなさいよ。」妻の言葉に、ふっと笑みを浮かべて、彼は肩をすくめた。


 「緊張してる暇はないさ。すぐに仕事が待ってるんだ。」だが、心のどこかで、この挨拶がただの儀式ではないと感じていた。


 黄家こうけの屋敷に到着すると、迎えに出てきたのは、妻の父親と、いかにも商売に精通していそうな義理の叔父だった。二人の視線に、すぐに袁崇煥えん・すうかんは違和感を覚えた。彼の周りには、どこか抜け目のない雰囲気が漂っている。


 義理の叔父がにやりと笑って言った。「崇煥すうかん殿、君の進士しんしとしての地位、実に立派だ。それにしても、進士というのは素晴らしい資格だ。金儲けにはもってこいだ。」


 その言葉に袁崇煥えん・すうかんは少し顔をしかめた。商売や金儲けがどうして進士しんしと結びつくのか。義理の叔父は続けて言った。


 「我が家も昔から、進士しんしの資格を利用して、良い取引をしてきたんだ。官僚の地位を得て、商人たちに便宜を図り、儲ける。これが我々のやり方だ。君も、この道に進んでみるといい。」


 袁崇煥えん・すうかんはその言葉を聞いて、胸の奥で何かが不快にざわつくのを感じた。進士しんしになったことで、仕事の裏にある金儲けの暗い部分に触れてしまったような気がした。


 「私は、そんなことに関わるつもりはありません。」袁崇煥えん・すうかんは静かに言った。


 義理の叔父は驚き、そしてすぐに笑いながら言った。「あはは、さすが崇煥すうかん殿、真面目なこと言うね。でも、現実は厳しいんだよ。官僚の仕事をしていれば、どうしてもその手の話は避けられない。」


 「興味がありません。」袁崇煥えん・すうかんは短く答える。これが本当に望んだ人生だったのかと、改めて思い知らされる瞬間だった。


 妻の黄青桂こう・せいけいがそっと彼の腕を引いて言った。「崇煥すうかん様、無理に合わせなくてもいいわよ。お義父さんたちも、あなたを試すつもりで言ってるだけ。」


 「試す?」袁崇煥えん・すうかんは微笑んだが、その表情はどこか冷たかった。「試されてるのは、俺の信念じゃないのか?」


 義理の叔父は苦笑いを浮かべながら言った。「まあ、君も立派な進士しんしだ。金儲けのからくりを知って、しっかり稼ぐ道を見つけてくれ。家族を支えるのは、その力だよ。」


 袁崇煥えん・すうかんはため息をつきながら、心の中で誓った。これから先、どんなに金儲けに誘惑されても、俺はその道には進まない。何のために進士しんしになったのか。何のためにこの道を選んだのか。それを忘れずに、進むべき道を見極める。


 「俺は、ただの官僚に過ぎない。それに、まだ見ぬ未来のために、全力を尽くす。」彼は心に誓った。金儲けの道に、決して堕ちない。と。

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