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守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章⑧

◯1615年(万暦ばんれき43年)


袁崇煥えん・すうかん、31歳──帰国の春


 風が吹く。南の海の香りをたたえた潮風だった。


 朱塗りの船が、静かに福建ふっけんの港へ滑りこむ。何年かぶりに見る大陸の大地は、どこか遠くなったような気がした。


 袁崇煥えん・すうかんは、無言で船べりにもたれていた。


 彼は広東かんとんの出身。静かな知識人の家に生まれ、読書と筆を友として育った。しかしその内には、誰にも見えぬ野心が燃えていた。


 ――帝国を守る盾となる。

 そのために、この目で世界を見たかった。


 弟とともに日本へ渡ったのも、すべてはそのためだった。


 「兄貴~、早く降りようぜぇ~! 陸のメシが食いてぇよぉ~!」


 弟の袁崇煜えん・すういくは、船べりで騒いでいた。兄とは真逆で、明るく軽口ばかり叩く陽気な男だ。けれど兄の志を誰よりも信じ、影のように寄り添ってきた。


 「……腹を満たす前に、頭を使え。」


 袁崇煥えん・すうかんはつぶやいた。


 弟が顔をしかめる。


 「またそれかい……もしかしてまだ、日本の話引きずってんの?」


 「家康いえやすだ。」


 「おお、大坂でドカーンってやったあの将軍か!」


 「徳川家康とくがわ・いえやす……豊臣とよとみの城を、大砲で砕いた。戦の形を変えた。」


 「それって……兄貴の好きな火器かきってやつの、あれか?」


 「ああ。」


 袁崇煥えん・すうかんの目が細くなる。まるで、海の向こうを透かし見るように。


 「ただの武力ではない。鉄と火薬の組み合わせ……それが時代を動かした。」


 「でもさ~兄貴、それよりまずやることあるんじゃね? 火器の研究とかもいいけど……さっさと科挙かきょに合格しようよ!」


 弟の口から出た言葉に、袁崇煥えん・すうかんは眉ひとつ動かさなかった。


 「……合格など、通過点にすぎん。」


 「出たー! 将来の国を守る男のセリフ!」


 「俺は軍を学ぶ。そして、戦を知る。」


 弟はぽりぽり頭をかいた。


 「兄貴のそういうところ、好きだけど……嫁の心配もしなよ?」


 「火器に嫁ぐ。」


 「うわ、硬派通り越してはがねだな兄貴……。」


 袁崇煥えん・すうかんは笑わなかった。


 だが、その頬に、風がわずかに触れたとき、かすかな微笑が浮かんだようにも見えた。


 こうして、帰国を果たした彼は――

 科挙の勉学に励みながら、密かに火器の研究を始めていくこととなる。


 帝国の未来を、その両の手で切り拓くために。



◯1617年(万暦ばんれき45年)


袁崇煥えん・すうかん、33歳──春、都へ


 道は、果てしなく続いていた。


 東の空にまだ陽が昇らぬうちから、袁崇煥えん・すうかんは歩いていた。


 彼は広東かんとん南寧なんねいの人。代々、学を重んじる家に育ったが、その胸の奥には、国を護りたいという熱があった。


 この日、袁崇煥はひとり、京の都・北京ぺきんを目指していた。


 「ふっ……この俺が、三十三さんじゅうさんにもなって、まだ受験生だとはな……」


 思わず笑って、すぐにため息をついた。


 目指すは「会試かいし」──

 これは、郷試きょうしに合格した者だけが挑める難関試験だった。

 試験は春に開かれるので、「春試しゅんし」とも呼ばれる。

 北京の真ん中、皇帝直属の高官たちの前で文を論じる。

 これに受かれば「貢士こうし」の称号を得て、いよいよ最終の「殿試でんし」に挑むことができる。


 全国の俊才たちが、北京に集まる。

 学問の闘技場。言葉の戦場。

 彼らと比べられ、見下され、打ちのめされる場所。


 「まったく、試験ってやつは心が折れるな……。」


 そのとき、背後から足音が聞こえた。


 「兄貴~~! お~~い、待ってよ~!」


 またか、と袁崇煥えん・すうかんは振り返る。


 走ってきたのは、弟の袁崇煜えん・すういくだった。おどけた笑顔で荷を背負い、よたよたと追いついてくる。


 「兄貴~、先に行かないでって言ったじゃんか! オレ、足短いのにさあ!」


 「鍛えろ。文も体も。」


 「ひえ~! またそれぇ?」


 弟は口をとがらせた。


 「だってさ、兄貴みたいなむっすり男が試験会場にいるだけで、他の受験生ビビるって! 合格間違いなしじゃん!」


 「……言葉で勝つ場だ。」


 「ふえぇ~……兄貴、最近カッコいいけど、どんどん笑わなくなってる……。」


 そうぼやきながらも、弟は兄の荷物をさっと奪って担いだ。


 「ま、オレは兄貴の秘書ってことで! 京でも宿探しとメシ担当は任せてよ!」


 「うるさい案内人だな。」


 「お褒めにあずかり光栄っ!」


 ──春の風が、二人の頬を吹きぬける。


 袁崇煥えん・すうかんはふと、北京の方角を見上げた。


 その空のむこうに、未来がある。


 火器かきを学び、国を守るためには、まずこの試験に勝たねばならぬ。


 「……行くぞ。すぐまた夜が来る。」


 「へいへい、兄貴の前では日も照らねえってか!」


 弟の軽口に、ほんの一瞬だけ、袁崇煥えん・すうかんは笑ったように見えた。



◯1617年(万暦ばんれき45年)

袁崇煥えん・すうかん北京ぺきんに立つ


 北京ぺきんは、広かった。

 そして、寒かった。


 「……風が、骨にしみるな。」


 袁崇煥えん・すうかんは、道ばたにたたずみ、夜明けの空を見あげていた。

 厚手の衣を着ていても、南方の広東かんとん生まれには、こたえる寒さだった。


 ここは、天下の首都。

 そして、科挙の戦場。


 「ここが……会試かいしの地か。」


 会試かいしは、全国の挙人きょじんたちが集まって受ける大試験だった。

 場所は「貢院こういん」という、特別な試験場。

 三月の寒空の下、三日三晩、外と隔てられた小部屋にこもり、文章を書く。


 第一日は「策問さくもん」。皇帝からの問いに答える。

 第二日は「経義けいぎ」。儒教の経典を論ずる。

 第三日は「詩賦しふ」。文章の技術を見る。

 合格者には「貢士こうし」の称号が与えられ、ついに殿試でんしへの道が開かれる。


 「……文章だけで、命運が決まる世界だ。」


 その時、背後からバタバタと足音がした。


 「兄貴~~! 宿が決まったぞぉ~~!」


 いつものように、弟の袁崇煜えん・すういくが走ってきた。

 色あせた帽子を被り、手には焼き芋を握っていた。


 「宿っていうか、納屋だけどな! 屋根はあるし、隣にニワトリもいるし最高だぜ!」


 「……せめて、壁があるところにしてくれ。」


 「えー? 壁があると寒いって聞いたぜ?」


 「初耳だな。」


 「ふふふ……じゃあ、兄貴が試験受けてる間、オレは北京観光しとくぜ! ウワサの羊肉串ようにくぐしを食いにいく!」


 「試験場の前に来るなよ。」


 「えー? お弁当差し入れしようと思ってたのに!」


 「……死ぬぞ。」


 「ヒィィ!」


 そう言いながらも、弟は焼き芋を差し出してきた。

 袁崇煥えん・すうかんは無言でそれを受け取ると、少しかじった。


 ──ほんのり甘い。

 それが、三日三晩の闘いに挑む勇気になった。


 * * *


 「三日間……何も見えない世界だった。」


 試験が終わり、朝の光が差し込んだとき、袁崇煥えん・すうかんは静かに空を見上げた。


 インクのしみついた指先。

 冷えきった足。

 眠気も、腹の減りも、とうに通り過ぎていた。


 だが、心には確かな手ごたえがあった。


 「……書いた。」


 それだけが、彼の胸に残っていた。


 * * *


 一数ヶ月後──。


 北京の掲示板に、多くの若者たちが群がっていた。

 袁崇煥えん・すうかんも、そこにいた。

 弟の袁崇煜えん・すういくは、肩車して彼の頭上で名前を探していた。


 「兄貴! 兄貴ぃぃぃっ!!」


 「……見つけたか?」


 「いたっ! いたぞぉぉっ! 袁の崇の煥!! 兄貴、合格だぁぁっ!!!」


 その瞬間、弟が彼の肩に飛びついた。

 焼き芋の皮が宙を舞った。


 「やったな! さっすが兄貴っ!! これで『貢士こうし』だぁっ!」


 「……ああ。やっと、始まる。」


 袁崇煥えん・すうかんの目は、もう次を見ていた。

 殿試でんし、そして……戦場を。

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