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守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章⑦

◯1612年:万暦ばんれき40年


 袁崇煥えん・すうかんは28歳。冷徹で無慈悲なその目は、戦場を歩んできた者にしか持ち得ない鋭さを持っていた。数々の戦を乗り越えてきた彼は、今、弟・袁崇煜えん・すういくとともに、日本の長崎ながさきに到着した。


 「ここが、長崎か。」袁崇煥えん・すうかんは言葉少なに呟きながら、港に目を向けた。日本に来てから数日が経ち、その地の匂いを少しずつ感じ始めていた。彼は何かを見定めるように、その目を鋭く光らせた。


 弟の袁崇煜えん・すういくは少し疲れた様子で、船の縁に手を置きながら言った。「兄貴、ここに来るのも大変だったな…。でも、こんなところに来たって、何をどうすればいいんだよ?」


 「まずは情報を集める。」袁崇煥えん・すうかんは冷静に答える。「戦の前に、必ず敵を知れ。それが、勝利への第一歩だ。」彼の言葉には迷いがなかった。目の前に広がる日本の状況をすぐにでも把握し、次の手を打たねばならないという決意が、彼の表情に浮かんでいた。


 弟は、兄のその冷徹な眼差しを見て、少しだけ不安を覚えた。「でも、情報って言っても…。この国には、俺たちが知っている戦のやり方と違うことが山ほどあるんだろ?」


 「だからこそ、俺たちが知るべきことは多い。」袁崇煥えん・すうかんは短く答えた。彼はまず、日本の戦国時代の動向を調べ、そして何よりも火器かきの重要性を確認する必要があった。この国では、武器の力が戦局を決することが多い。そして、火器がそれにおいて重要な役割を果たしていることは、彼にはすでに見えていた。


 「火器?」弟は眉をひそめた。「あの火薬みたいなものか? でも、それがどれほどの力を持ってるんだ?」


 「火器がなければ、戦は決して有利には進まない。」袁崇煥えん・すうかんは冷徹に言った。「日本では、鉄砲てっぽうが使われている。俺たちが知っている武器とは比べものにならないほど強力だ。」彼の言葉には、冷静な分析と無駄のない戦略が感じられた。


 弟はその言葉をしばらく黙って聞いていたが、やがてため息をついた。「まあ、兄貴が言うなら、俺も納得するしかないけどさ。でも、どうやってその火器を手に入れるんだ?」


 「方法は簡単だ。」袁崇煥えん・すうかんはにやりと笑った。その顔には、戦場で生き抜いてきた男ならではの鋭い知恵が宿っていた。「この地には、火器を持つ商人や職人がいる。まずはそいつらから情報を集めるんだ。」


 弟は肩をすくめた。「商人や職人か…。まあ、俺たちが聞き込みをしていれば、何かしら見つかるだろうな。」


 「その通り。」袁崇煥えん・すうかんは冷静に答えた。「ここから先、俺たちの仕事はただ一つ。戦を有利に進めるための道を切り開くことだ。」


 弟は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。その目の前に立つ兄の姿を見て、もう無駄な反論はできないと思ったからだ。


 「行こう。」袁崇煥えん・すうかんは一歩踏み出すと、弟に向かって言った。「長崎の情報を集める。そして、戦に必要なものを手に入れよう。」



◯1612年:万暦ばんれき40年――長崎ながさき


 袁崇煥えん・すうかんは28歳。

 冷たい目をした男だった。沈黙を武器にし、常に周囲の一歩先を読もうとする戦略家。その厳しさゆえに、時に仲間さえも距離を置いた。だが、彼の才と信念を疑う者はいなかった。みんの国を守るためなら、火の中にも飛び込む覚悟があった。


 今、彼は弟の袁崇煜えん・すういくと共に、日本の長崎に滞在していた。

 弟の崇煜すういくは、兄と正反対だった。お喋りで陽気。食いしん坊で、細かいことは気にしない。いつも兄に叱られてはケロリとして、またヘラヘラ笑っていた。


 「兄貴ィ~~っ、こっちこっちっ!」

 崇煜すういくが両手を振って、屋台の前から呼んでくる。顔をテカテカにさせて、手には湯気を立てるどんぶりを抱えていた。

 「こいつぁ、長崎名物の『卓袱しっぽく料理』ってヤツだ! いろんなもんがごっちゃに入ってて、意味わかんねーけど、うんまいっ!」


 袁崇煥えん・すうかんは足を止め、無言で弟を見つめた。

 「食ってみなって、兄貴! こっちはなんか、豚のなんちゃらで、こっちは――えーと、なんだっけ……なんかすげぇ魚!」


 「……俺は、腹より先に探るものがある。」

 低い声で呟くと、崇煥すうかんは屋台の隅にいた、一人の異国の男に視線を向けた。


 それは、ポルトガルから来た商人だった。名はクリストヴァン・フェレイラ。

 派手な羽織をまとい、片言の日本語と中国語を操りながら、この地で西洋の品を売りさばいていた。火薬、香料、絹布――そして、火器かき


 「お前、あの商人を見たか?」

 崇煥すうかんが問うと、弟は鼻の下をこすって笑った。


 「んあ? うん、なんか派手な帽子かぶってたヤツだろ? 魚くれるかなーって思ったけど、どうやら鉄くれんのかよ。残念。」


 「魚じゃない。大砲だ。」

 その言葉に、崇煜すういくは箸を止めた。


 「だ、だいほう? 兄貴、まさか……あのヤツから、鉄のドカン買うつもりか?」


 「奴が持っているのは『紅夷こうい大砲』だ。西洋の最新式。敵を吹き飛ばす威力を持つ。」

 崇煥すうかんは低い声で続ける。「この大砲があれば、戦のかたちが変わる。」


 「ま、マジで……?」

 弟は目を丸くした。箸の先から豆腐がポトリと落ちた。


 「ただの旅じゃねぇなぁ、兄貴のやることは……」


 「これは旅じゃない。」崇煥すうかんは言い切った。「これは戦の準備だ。国を守るための戦略だ。」


 クリストヴァン・フェレイラとの接触は、想像より早く実現した。

 その夜、崇煥すうかんは長崎の異人館いじんかんを訪れた。洋灯の明かりの下、静かに交渉が始まる。酒を交わし、言葉を選びながら、互いの腹を探る。


 「中国ノ軍人サン、アナタ、何求メル?」

 クリストヴァン・フェレイラの目が光った。


 「俺が欲しいのは、火だ。敵を焼き払う力だ。」

 崇煥すうかんは杯を置き、真正面から言った。


 男は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに笑った。「アナタ、強イ心、持ッテルネ。紅夷こうい大砲……考エル価値、アル。」


 この夜の出会いが、すべての始まりだった。

 袁崇煥えん・すうかんは、この異国の地で、最強の武器と繋がる糸口をつかんだ。

 火を制する者が、戦を制する。


 そして、彼の静かなる戦いが、ここから幕を開けた。


 「兄貴……やっぱ、ただの食い倒れ旅じゃ、ねぇんだな……」

 湯気の向こうで、弟の崇煜すういくがぽつりとつぶやいた。

 その声は、少しだけ、誇らしげだった。



◯1613年:万暦ばんれき41年

袁崇煥えん・すうかん、29歳。帰国の船上にて──


 甲板の上を潮風が吹きぬける。白い帆が空に溶け、波の音が、遠くの銃声のように小さく響いていた。袁崇煥えん・すうかんは、日本からの帰国船に乗り、静かに海を見つめていた。


 その背後から、ひとりの若者がどたばたとやってくる。


 「兄貴ぃ〜! まだ景色見てるの? 腹減ったよ! 干し魚、全部カモメに持ってかれたってば〜!」


 袁崇煥えん・すうかんの弟、袁崇煜えん・すういくは二つ下。元気がとりえの陽気な男だ。だが、兄とは正反対で、どこか抜けている。 


 「……お前の油断だ。」


 袁崇煥えん・すうかんは短く言った。声に感情はない。それでいて、妙に重い。


 弟はくしゃっと顔をしかめた。「ううっ、せっかく日本から持って帰る土産にって干しといたのに……カモメめぇ……!」


 「飯のことより……俺は考えていた。」


 「ん、何を?」


 袁崇煥えん・すうかんはゆっくりと海から目を離した。その瞳の奥には、火花のような光が宿っている。


 「戚継光せき・けいこう――あの人のことだ。」


 「せ、戚……? あの昔のすごい武将のこと? 兄貴がよく兵書読んでたあの人?」


 「そうだ。」


 袁崇煥えん・すうかんの口元が、わずかに緩んだ。


 「戚継光せき・けいこうは、俺が尊敬する将だ。海から来る倭寇わこうを討ち、訓練で鍛え上げた兵で、帝国の海を守った男だ。」


 「倭寇……あっ、日本の海賊か。なるほどね、兄貴、今回も日本の連中と色々あったし……それで思い出したのか。」


 「いや、違う。せき将軍は、ただ戦っただけじゃない。彼は兵の心を知り、地形を知り、そして“火器”の力を知っていた。」


 「火器か……ああ! 兄貴があのポルトガルのオッサンと話してた時の話だ! “紅夷大砲こうい・たいほう”とかいう、あのドカーン! ってやつ!」


 「……それだ。」


 袁崇煥えん・すうかんは小さくうなずいた。


 「せき将軍は、火器の力で敵を砕いた。だが、それだけではない。彼は“人”を動かした。軍を率いるというのは、道具の力だけではない。“心”だ。」


 弟は鼻をすんすん鳴らした。


 「つまり兄貴も、火器だけじゃなくて、人の心も動かす将になるってことか? おおっ、ちょっとカッコイイなそれ!」


 「俺は、まだ何者でもない。ただの兵士にすぎん。」


 「いやいやいや、兄貴の言うこと、なんか毎回ドラマの主役っぽいよ?」


 「うるさい。お前のその軽さ、風にでも飛ばされてしまえ。」


 弟はにかっと笑った。


 「飛ばされたら、兄貴が拾ってくれるんだろ? なーんてな!」


 その瞬間、遠くから白い波が砕けた。中国の大地が、うっすらと水平線に見え始めていた。


 袁崇煥えん・すうかんは静かに呟いた。


 「帰ったら、やるべきことがある。俺が……“道”を作る番だ。」


 「よっ、将軍様!まずは科挙を頑張ろうぜ!」


 風が吹く。潮の香りが彼らの背中を押した。

 戚継光せき・けいこうがかつて守ったこの海を越えて、

 新たな戦いが始まろうとしていた──。

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