守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章⑥
◯1610年:万暦38年
石柱の地に吹く風は冷たく、ひとたび木々が揺れると、その音はまるで夜の囁きのようだった。袁崇煥はこの冷徹な風を全く気にせず、目の前の秦良玉に視線を投げかけた。年齢は約36歳。だが、その目には若さを感じさせない鋭さがあった。すでに多くの戦場でその名を轟かせ、冷静な判断力と勇気を併せ持つ、頼れる女将軍だ。
「おい、兄貴、寒くねぇか?」
と、隣に歩く弟・袁崇煜がつぶやく。
「黙れ。」
と、袁崇煥は冷たく一言。すぐにまた視線を前に戻し、秦良玉に問いかけた。
「秦殿、この地の今後の戦略について、どうすればよろしいでしょうか?」
秦良玉は少し驚いた表情を浮かべながらも、すぐにその目を鋭くした。
「貴方は、どうしてそんなことを聞くのですか?」
その問いには、単なる好奇心だけでなく、深い意味が込められていることを感じ取った。恐らく、秦良玉は、袁崇煥を試そうとしているのだろう。この質問の裏には、彼の戦略眼を計る試練が隠されているのだ。
「ただ、これからの戦局をどう見通すかを聞きたかっただけです。」と、袁崇煥は冷静に言った。
「そうですね。まずは物資が不足しています。食料も武器もです。それが不十分ならば訓練の成果も十分ではなりません。」
少し間を置いてから、袁崇煥はさらに言葉を続けた。
「私の考えでは、朝廷からの支給に不足があるのではないかと思います。万歴帝の無駄遣いが原因です。
中央政府からの兵糧輸送を減らす代わりに、自領内での徴税権を強化する約束を取り付ける手段があります。現地調達の方が効率がいい。
武器については改良できる余地があります。まず、石柱の地で手に入る、トリネコの木を使って槍を作るのはどうでしょうか。」
その提案に、秦良玉は一瞬目を見開いた。「トリネコの木で槍? そんなことを聞くとは、意外ですね。」
馬千乗がすぐに口を挟んだ。「おいおい、袁崇煥殿、そんな硬い木で槍を作るなんて、無理に決まってるだろう?」
袁崇煥は、じっと二人の顔を見た。その目は冷徹だが、言葉には重みがある。「そうおっしゃるのも無理はありません。しかし、この木材の強度を活かせば、戦場での武器として非常に有用になるはずです。」
「なるほど。」と、秦良玉は静かに言った。「だが、問題は加工法だ。あの木材をどうやって槍に仕上げる?」
「そこが肝心なところです。」と、袁崇煥は静かに答える。「適切な技術者を集め、木材の性質に合わせた加工法を考案すれば、十分に戦力として役立つ槍を作り出せるはずです。」
馬千乗は首をかしげながら言った。「そうか…でも、そんなことが本当にできるのか?」
「やってみなければ分かりません。」と、袁崇煥は冷たく言い放った。「理にかなっていると私は思う。」
その言葉に、秦良玉は少し考え込んだ後、頷いた。「確かに、理にかなっている。だが、実際にどうなるかは試してみる必要があるな。」
馬千乗は、少し笑いながら言った。「さすがだな、貴殿の発想には驚かされる、そんな意外な提案をしてくるとは。」
「以前、異国の本で知りました。神もこの樹木を使って槍を作ったそうです」と、袁崇煥は苦笑しながら答えた。
秦良玉は、じっと袁崇煥の目を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。「貴方の考えを試してみる価値はあるとおもいます。もしこれが成功すれば、石柱の地は他の地域に対して大きな優位性を持つことになるでしょう。」
「その通りです。」と、袁崇煥は静かに答えた。「そのために、私はこれを提案したのです。」
その後、三人はさらに計画を練り上げ、石柱の地で手に入るトリネコの木を使った槍の製造に向けて、実行の準備を整えた。
◯1611年:万暦39年
28歳になった袁崇煥は、石柱から帰還したばかりだった。冷静な判断力と無慈悲な行動力を持つ彼は、これまで数多くの戦場を渡り歩き、その名を轟かせてきた男だ。しかし、今、彼の目の前に広がっているのは、ただの帰還ではなく、次なる挑戦の予感だった。
弟の袁崇煜は、まだ少し息を切らしていた。二人で訪れていた石柱での一件が終わり、帰路についているが、袁崇煥はすでに次の目標を胸に抱いていた。
「兄貴、無事に帰ってきたんだな。夢みたいだ。」弟は笑みを浮かべながら言ったが、その顔にはどこか安堵の表情が隠れていた。
「だが、これで終わりじゃない。夢のつづきを見せてやる」
袁崇煥は無表情のまま答えた。彼の瞳は遠くを見つめている。
「次の場所へ行かなくちゃならない。」
弟はその言葉を聞いて眉をひそめた。
「次? それじゃあ、どこに行くんだよ?」
「日本だ。」袁崇煥は一切の躊躇もなく言い放った。
弟の袁崇煜はその言葉に驚き、目を大きく見開いた。「日本? 兄貴、あそこまで行くのがどれほど難しいか、わかってるだろ?」
「難しいのは承知している。」袁崇煥は煙草をくわえながら言った。あくまで冷静に、そして無感情に。「でも、俺の行く先に道がないなんてことはない。俺が作ればいいだけだ。」
弟はしばらく口を閉ざしていた。日本――それは確かに遠く、行くには困難を極める場所だった。船もなければ道もない。しかし、兄の袁崇煥が言うことは、まるでそれが決まった未来のように感じられた。
「おいおい、兄貴、本気かよ?」袁崇煜は笑いながら言ったが、その声には半分の驚きと半分の不安がこもっていた。「日本って、簡単に行ける場所じゃないだろ? それこそ、何もかもが違う世界だ。」
「だから面白い。」袁崇煥は平然と言った。その表情には、どこか遠くを見るような瞳が宿っていた。「新しい戦場が待っている。それが何だって?」
弟は頭を抱え、思わず天を仰いだ。「うわ、兄貴、どうしてこういう無茶をするんだよ! 俺たち、まだやらなきゃいけないことがあるだろ! 戦だってあるし、ここでやるべきことは山ほどある!」
「俺は後悔しない。」袁崇煥は力強く言い切った。「何もかも捨てても、俺は日本に行く。次に進むだけだ。」
弟は言葉を失った。その目の前にいる兄が、どんなに無謀なことを言っているのか、彼自身も分かっていた。しかし、兄の決意が固いことも、よく知っていた。彼は無力感を感じながらも、ついに口を開いた。
「わかったよ、兄貴。でも、せめて準備をしてから行けよ。あんな無謀な旅、誰も成功させたことがないんだからな。」
「お前もついてこい。」袁崇煥は淡々と答えた。「お前が嫌だって言うなら、一人でも行く。」
弟は苦笑しながら、肩をすくめた。「わかったよ。俺も覚悟を決めるしかないな。だいたい、商売で路銀を調達できるのは俺しかいないだろ?」
「そうだ。」袁崇煥はにやりと笑った。「これからが本番だ。」
◯1612年:万暦40年
袁崇煥と弟の袁崇煜は、長い旅路を経てようやく日本にたどり着いた。二人は、数ヶ月にわたる困難な航海を耐え抜き、ついに異国の地に足を踏み入れたのだ。
弟の袁崇煜は、体力を使い果たしたように息を切らし、船の上で膝をついていた。「兄貴、こんなに苦しい思いをしてまで来たのか…日本って、まるで別世界だな。」彼の声には疲労と、少しの不満が混じっていた。
袁崇煥は、無表情のまま船の手すりに手を置き、遠くの景色を見つめていた。彼の瞳には、決して疲れを見せることはない。彼はただ、目の前にある新しい戦場を思い描いているだけだった。「俺はお前と違って、無駄に悩んでる暇はない。俺は日本に来る理由があったんだ。」その声は低く、冷徹だった。
弟は、兄のその冷静な一言に驚き、ふと息を呑んだ。「でも、兄貴…こんなに大変な航海をして、目的地にたどり着くのはいいとして…どうやってここから先に進むんだ? 日本の土地について、何もわからないだろ?」
「それを、これから調べるんだ。」袁崇煥はすぐに答えた。「日本の状況についても、あらかじめ情報は入れてきた。今、この国は戦乱の最中だ。戦国時代の真っ只中だが、それでも俺たちが求めていたものがある。」彼は少し間を置いて、弟の方を振り返った。「戦、だ。」
弟は眉をひそめた。「戦? それが目的かよ…。俺たちはここに来るためにどれだけ苦労したと思ってんだ? どう考えても無茶だろ、兄貴!」
「無茶だろうが、なんだろうが。」袁崇煥はまた遠くを見つめながら言った。「日本は今、乱世だ。戦の匂いが漂っている。それが俺たちにとって、逆にチャンスになる。」
弟はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。「まあ、兄貴が言うことだからな、仕方ないか。」そして、疲れた顔を見せながらも、少しだけ笑った。「だけど、ここに来てみてわかったけど…日本の地って、どこを見ても不安定だな。」
「不安定なのは、俺たちが入ってきたからだ。」袁崇煥は冷静に言った。「お前も知っているだろ、戦国時代の日本。今は各地で戦が繰り広げられている。でも、この国には、俺たちが必要とするものがある。それが、今の俺たちの役目だ。」
弟は少し黙ってから、苦笑を浮かべた。「そんなに大きな目的を持ってるなら、さっさと動き出さないとな。でも、兄貴、どうするつもりだ?」
「まずは情報を集める。」袁崇煥は決意を込めて言った。「ここから先の道を、俺が切り開く。」
弟は、しばらくじっと兄を見つめた後、ため息をついて立ち上がった。「まあ、仕方ない。俺も覚悟を決めるしかないか。」そして、ふと笑みを浮かべた。「日本か…面白くなりそうだな、兄貴。」
「そうだ。」袁崇煥はにやりと笑った。「これからが本番だ。」