守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章⑤
◯1609年:万暦37年
夜風が冷たかった。
明の北辺から南に戻る道すがら、月は遠く、道は暗い。
「あにき~!ったくよォ〜〜! もう二度と会えないかと思ったぞ!」
袁崇煜は、鼻水を垂らしながら袁崇煥の肩をバシバシ叩いた。
「ヌルハチ(ぬるはち)に呼び出された、って言われた時ァ……俺、拝んだよ!? 本気で!」
「それはありがとな。」
袁崇煥、二十六歳。
文官の家に生まれ、貧しさのなかで学を極めた。
今では、辺境防衛の一角を担う若き軍略家である。
無口。頑固。命知らず。
「だけどよォ、相手は“あの”ヌルハチだぞ!? 首をはねられてもおかしくなかったろ!? なぁ!? それを“借りができた”とか言って、なんなんだよその態度は!」
「……相手が只者じゃなかったからさ。」
袁は焚き火に薪をくべた。火がぱちりと音を立ててはぜる。
「ヌルハチを…お前は見たか?」
「いや、俺は見てない。ホンタイジ(ほんたいじ)だけで腹いっぱいだ。」
袁の目が細くなる。
「――奴は、戦そのものの化身みたいだった。気を抜けば、こっちの心が全部読まれる気がした。」
「……は? ちょっと何いってるかわかんないです。」
袁崇煜は口をぽかんと開けた。
「俺、字は読めるけど“人の心を読まれる”とかそういう文学的な表現はわかんねぇの!」
「つまりだ。」
袁は少しだけ笑った。
「……“生きて帰ってこれた”のが、奇跡だって話さ。」
「笑うなーッ!奇跡で帰ってきた死にぞこないが!ニヒルに笑うなーッ!」
袁崇煜が髪をかきむしる。
「それで? 今度はどこ行く気なんだよ? まさか南の――」
「石柱だ。」
「やっぱり石柱!! あそこは盗賊もうようよいるし、地元の軍閥も治安がガバガバなんだぞ!? “流石にそこは止めよう”って思わなかったのか!?」
「……止まったら、そこで終わりだ。」
袁は立ち上がると、火の明かりで地図を見た。
「南方の四川地方では、少数民族反乱が起きている。「楊応龍」というヤツが反乱を起こしているんだ。それに苗族の叛乱も起きている・これはこの目で戦いの現場を見たいのだ」
「ほらまた、また死にに行こうとしてるじゃん。兄貴はビビるとかいう概念について、イチから学んだ方がいいよ」
袁崇煜が叫ぶも、袁はすでに歩き出していた。
「お前には感謝している。金儲けの才能はどこにいっても役に立つだろう。では、戦地に行こう。」
「おう、なんてこったいまさに無鉄砲の化身だ……ッ!」
焚き火が風に揺れた。
その炎の向こうで、袁崇煥の背は一層大きく見えた。
◯1609年:万暦37年
地平線の向こうに、朝日が顔を出しはじめた。
靄を割るように、二つの人影が寒風の中を進む。
「おい兄貴〜! 冗談だろ!? ……ほんっとに“歩いて”石柱まで行く気かよォ〜〜!?」
袁崇煜は、雪にずぶずぶ足を取られながら、心底情けない声を上げた。
袁崇煥は無言で前を歩き続けていた。
袁崇煥、二十六歳。
広東の貧しい家に生まれ、科挙を目指す男。
剣より筆に通じ、しかし軍事に天才的なひらめきを持つ。
その歩みはいつも、静かで、決して止まらない。
「い、いいか!? ここ今、満州なんだよ!? このまま南下して、遼東、広寧、そのあと西へ進路を変えて、山を越えて、谷を越えて、獣も越えて、やっと石柱だぞ!? 俺は途中で干からびるぞォ〜〜!!」
「――寧遠から瀋陽へ抜ける。」
「聞いてよッ!? わざわざ恐ろしいルートを言語化するなよォ!!」
袁は、粗末な地図を広げた。
「遼河を南下して、渾河沿いに出る。
東に海を見ながら、山海関を越える。
そして、平壌ではなく、内陸に折れて雲南方面を目指す。」
「ほほぅ、なるほどね〜って言うと思ったか!? 何百里あると思ってんだ!! その脚は馬か!? 牛か!? 妖怪か!?」
「人間だ。」
袁の返答に、袁崇煜は崩れ落ちた。
「うおおお……この男、マジだ……。マジで山を歩くつもりだ……!」
雪の中、風が二人の外套をはためかせた。
その背中に、遠く女真の山々が霞んでいる。
「……崇煜よ。」
「ん?」
「泣いても、止まっても、行くしかない。」
「ぐぇ……それ言う時だけ、やたらカッコいいのズルくない?」
「お前は荷物持ちとしては優秀だ。」
「褒め言葉か、それ!? それかァ!?」
ふたりの足跡が、白い地面に伸びていく。
その先にあるのは、戦乱の石柱、そして……袁が目指す未来だった。
◯1610年:万暦38年
石柱の空気は冷たく、霧が立ち込める朝の風が肌を刺すようでした。
袁崇煥はその寒さに眉をひそめ、しばし立ち止まりました。
「この地か…」
彼の目的地は、ただ一つ。
北方の騎馬民族と戦った武将、馬千乗を尋ねることでした。
袁崇煥は、科挙の合格を目指す浪人生。試験に失敗し、再挑戦を決意している若者です。文を学び、戦を憂い、政治を語ることに興味を持っていたが、武を取るべきか否かを迷う日々を送っていました。
馬千乗は、数々の戦においてその武勇を証明し、地元の英雄として崇められている男でした。
彼の家には、伝説的な強さを誇る将軍の妻がいます。
その名は秦良玉。
兵を率い、戦場で何度もその名を轟かせた女丈夫です。
「おお、いらっしゃい、袁崇煥殿。遠いところからようこそ。」
馬千乗は、豪快な笑みを浮かべて袁崇煥を迎えました。
大きな体に鉄のような強靭な手が握手を求める。
その手を取った袁崇煥も、ほんの少しだけ力強く握り返しました。
「ありがとうございます。お会いできて光栄です。」
「いや、いや。こちらこそ、君がこんな地まで足を運んでくれるとはな。郷試 に合格した舉人だとか。将来の大臣様だな。」
馬千乗は愉快そうに笑いながら続けました。「おっと、紹介しようか。こちらは私の妻、秦良玉だ。」
秦良玉は、馬千乗の隣に立つ、凛とした女性でした。
その眼差しは鋭く、しかしどこか温かさも感じさせるものでした。
袁崇煥が礼を言うと、彼女も穏やかに応じます。
「初めまして、袁崇煥殿。こちらこそお会いできて嬉しいです。」
その言葉に、袁崇煥は少し驚きました。
秦良玉の静かな威厳に心を奪われながらも、彼は口を開きます。
「こちらこそ、秦良玉殿の名はよく聞いております。数々の戦功を挙げた英雄とお聞きしました。」
「ふふ、英雄だなんて。男に囲まれた戦場で死なないよう、ただただ必死に生き延びた結果です。」
「謙遜なさることはありません。」
袁崇煥は真剣な表情を見せました。「実際、あのような戦場で生き抜くことができるのは、並の者ではないはずです。」
秦良玉はわずかに微笑みました。その微笑みが、袁崇煥にとっては非常に印象深く感じられました。
「そう言ってくれると嬉しいわ。」
その言葉に、今度は無邪気な声が加わります。
「おい、姉ちゃん、俺も挨拶させろよ!」
突然、少年のような声が響きました。
秦良玉の弟、秦邦屏が登場したのです。
彼は、袁崇煥に向かって大きな笑顔を見せながら、手を差し出しました。
「初めまして、袁崇煥殿! いやー、噂は聞いてますぜ!満州で女真族の首領に遭って、生きて帰ってきた男がこっちに来るってんだから、すごく楽しみだったんだ!」
「初めまして、こちらこそ、南方の戦士たちに会えて光栄です。」
「戦士たちなんて大げさな!大した事ないですって、でも逃げ足だけは速いから戦死だけはせんし~!なんちゃって~」
その言葉に、袁崇煥は一瞬呆れ顔を見せ、すぐに笑みを浮かべました。
「私はまだ学問の身ですが軍略を極めたいのです。現場の指揮について教えてください。」
「いいねえ。じゃあ、俺と親友になりましょうぜ。すぐにでも! いや、今すぐにでも!」
「ぜひよろしくお願いいたします。」
「じゃあ、まずは酒を酌み交わすところからですな~」
笑いがひとしきり交わされた後、馬千乗は大きな声で叫びました。
「妻の弟と気が合ったようですな。それでは、今日は飲み明かしましょう! 袁崇煥殿、覚悟はいいか?おっと弟殿もですぞ。」
「いいんですか?じゃあ、兄には話を、俺には酒をお願いしま~す。」
こうして、酒が酌み交わされ、袁崇煥兄弟と馬家の者たちは夜が明けるまで語り続けました。
それぞれが夢や希望を語り合い、時には過去の戦場の思い出に浸り、また時には笑い声を上げて酒を飲み干しました。