守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章④
◯ 西暦:1611年(明・万暦三十九年)
それは、雪の降る朝でした。
袁崇煥、二十五歳。広東出身の書生にして、野望を胸に抱く旅人です。彼は、明の国がいずれ直面するであろう危機を、一人だけで見抜いていました。
北に――動乱の兆しあり。
女真の地、満州。
その奥深くへと、袁は足を踏み入れました。
ただの旅人では入れぬ場所です。袁は身分を偽り、「楊という商人」として国境を越えました。道連れは、例のごとく、弟の袁崇煜です。
彼は雪道で何度も転びながら、袁の後をついていきました。
「おいおい! 兄貴! 寒いってレベルじゃねえぞこれは!」
「黙って歩け。声がでかいと、犬どころか狼を呼ぶぞ。」
「狼!? いやいや、俺、食われるのだけはゴメンなんだけど!」
袁崇煜はぶるぶる震えながら、袁の背中にくっつくように歩いていました。
「……本当に行くのか? あのヌルハチってやつのとこに?」
「行く。今この瞬間にも、奴は戦を準備している。こっちが知らなければ、やられるだけだ。」
「危ないやつって聞いてるよ!?殺されちゃうよ」
「だから、俺が行く。俺の目で、奴を見なければ意味がない。」
袁崇煜は、袁のその冷たい目に一瞬息を呑みました。
――こいつは、自分の兄だが、まともじゃない。
そう思いました。
数日後、二人は女真の集落にたどり着きました。
二人は商人風の格好で、毛皮の交易を装って入りこみました。ことばは不自由ながら、漢字を書けば何とか通じます。
そして、その日。
村の広場で、ひときわ大きな声が響きました。
「どけいっ!」
馬に乗ったひとりの男が、勢いよく現れたのです。
長身、鋭い目。黒い鬚をたくわえ、全身からただならぬ圧が漂っていました。
ホンタイジ――女真族の頭領。明を敵とし、のちに清を建てる男です。
張は青ざめました。
「お、おいおいおいおい……あいつ、ヌルハチだろ!? 絶対そうだよな!? どうする? 逃げる?」
「落ち着け、ヌルハチにしては若い。いい機会だ……話す。」
「はあああ!? 死にたいのか!?」
袁は、静かにホンタイジの前へ進みました。
ホンタイジは目を細めて、袁を見ました。
「見ない顔だな。何者だ?」
「毛皮を買いに来た旅商人です。」
「……目が違う。」
ホンタイジは、じっと袁崇煥を見ました。
「お前の目は、物売りの目ではない。戦を知る者の目だ。」
「……恐縮です。」
二人はしばし見つめあいました。
その空気は、まるで刃のように張り詰めていました。
「名前は?」
「楊、と申します。」
「そうではない、本名の方だ」
「――袁崇煥と申します。」
「――まあいい。今はただの旅人として扱おう。この近くに俺の天幕がある。興味があるなら来るがいい」
ホンタイジは馬を降り、去っていきました。
張はその場にしゃがみこんで、ぶるぶる震えていました。
「兄貴、なに話してたんだ!? 心臓止まるかと思ったぞ!」
「……本物だな、あいつは。」
袁は空を見上げました。
白い雪が、ゆっくりと舞い降りていました。
「どうやら天幕に招待してくれるらしい。いい機会だからお邪魔しよう」
「ほんとに、兄貴は命知らずだな!」
◯ 西暦:1611年(明・万暦三十九年)
夜の帳が静かに降りていた。
木々の葉の間から、月が鋭く地面を照らしている。
袁崇煜は焚き火のそばで焼き芋の皮を剥いていた。
「いや〜、ここまでくると逆に感心するね。兄貴って度胸ありすぎて早死にするタイプだよね」
「お前が妙に商才があるのに感心した。まさか、安くで買った交易品からこれほどの利益を出すとはな。無事帰れたら商人になるべきだ」
袁崇煥は、手元の縄を見つめたままぼそりと返した。
女真の本営。
今度は、父君・ヌルハチ(ぬるはち)本人に呼び出されたのだ。
「おい、お前が“ホンタイジ(ほんたいじ)と軍略を語り合った”っていう、妙に筋が通った漢人か。」
低く、太い声が室内に響いた。
男の名はヌルハチ。女真族を統べる大王。荒くれ者を何百と束ねてきた、生ける伝説の男。
その視線が、まっすぐに袁を射抜く。
「貴様、明の密偵か?」
「……いいや。」
袁は、涼しい顔で言った。
「ただの“苦学生”です。」
「苦学生だと?」
「知りたかったのです。科挙を目指すものとして、政治の現場を。」
袁崇煜が驚いて、耳をそばだてた。
「ちょっ、えっ、それ俺初耳なんだけど!? 兄貴ってば、苦学生だったの!?」
「ああ、今も現地で苦労しながら学んでいる」
ヌルハチの口元がぴくりと動いた。
「なるほど、貧しさに学を求め、戦を学び、満州まで入りこむとは……」
そう言いながら、彼は卓上の戦図を指差した。
「この布陣。敵が三千、こちらが五百。突破するにはどうする?」
袁は一瞥して答えた。
「陽動を左に。伏兵を右に。真ん中を空けます。」
「ほう?」
「空いた真ん中に、敵が雪崩れこむ。その瞬間、左右から挟み撃ち。――“見せかけの空”の戦術です。」
ヌルハチの目が鋭くなった。
「やはりただ者ではないな。」
しばしの沈黙の後、部屋の奥からホンタイジが現れた。
「父上、どうか彼を斬らないでください。」
ぴしゃりと、はっきりした口調だった。
「彼は、敵である前に、知の友です。」
ヌルハチは目を閉じた。
それから、くつくつと笑い声を漏らした。
「面白い。ならば解き放とう。」
彼は立ち上がり、袁の縄を切らせた。
「敵に塩を送るようなものだが――この先の戦、こういう奴とやり合うほうが、張り合いがある。」
それだけ言うと、ヌルハチは腰の袋から銀子を取り出した。
「これを取っておけ。道中の路銀だ。我らに興味があるならまた来るがいい」
袁崇煥は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐにそれを受け取った。
「……ありがたく頂戴します。」
「さて、どのようなかたちで返してくれるかな?その時が楽しみだ。」
ヌルハチの笑みには、戦場を見据えた老将の静けさと熱が同居していた。