守城の名将:袁崇煥:第6章:悲運の章③
1630年
京・北京の冬は冷たく、重く、そして残酷だった。
牢の中、ひとりの男が鉄の枷に繋がれていた。 その男こそ、遼東を守った名将――袁崇煥。 彼はかつて、満州族の侵攻から明の北辺を守りぬいた名将であり、無骨で信念の男であった。
だが、いまや彼は反逆者として、死を待つ身だった。
「……なんだ。また、ワイロで入ってこれたのか。金がものを言わせるとは、世も末ってやつだな」
ぼそりと呟いたその声は、低く枯れていたが、どこか投げやりな強さがあった。
その声に反応したのは、牢の外から顔を覗かせた何可綱だった。
何可綱は、臆病だが、人情味のある男で、袁崇煥の腹心の一人だ。
「だ、大人! こ、これを……こっそり持ってきましたっ!」
彼の手には小さな布包み。 袁崇煥が眉をひそめると、何可綱は急いで中を広げた。
「これは……」
「痛み止めの薬です! 秦良玉将軍からの差し入れですっ!」
秦良玉。蜀・四川の石柱を治める女性武将。 男勝りの強さと、揺るぎない正義感を持ち、袁崇煥に深い敬意を抱いていた。
「この薬……麻薬だろう?どこで手に入れた?」
「し、四川で昔、虐殺が行われたときに人々が使ったって……」
何可綱の声は震えていた。
「……秦将軍が、こんな私のために……」
袁崇煥は目を細めた。 その鋭い瞳に、わずかに温もりが宿る。
「私は人に恵まれた人生だった。ならば、もう誰かを恨むまい」
袁崇煥は短く笑った。 その笑みは、どんな名誉よりも、価値のあるものだった。
「これしか……これしかできず、申し訳ありません……っ」
何可綱は顔を伏せた。
「言うな。お前たちは……よくやった」
その時、遠くで太鼓の音が鳴った。 処刑の合図。
崇禎帝は、袁崇煥に最も残酷な刑――凌遅刑を命じた。 肉を少しずつ削がれ、百余回にわたって切り刻まれる、あまりに非道な刑である。
「……行ってくる」
袁崇煥は薬を口に含んだ。 しばらくして、苦しみが薄れたのか、彼はゆっくりと立ち上がった。
背筋はまっすぐだった。 瞳は曇らなかった。
「閣下……」
何可綱が嗚咽をこらえて言った。
「最後まで……何もできませず……」
袁崇煥はふっと笑った。 そして、言った。
「死ぬという事は……どう生きたかを見せる舞台だ」
その背を、誰も忘れなかった。
◯1630年
北京の朝は、冷たく静かだった。
その朝――一六三〇年、旧暦の九月二十四日。
大明という国を救おうとした男が、 大明という国に殺される日だった。
その男の名は――袁崇煥。
彼は遼東の防衛を一手に引き受けた重臣。 皇太子の命も、都の安全も、満州族の侵攻から幾度も守ってきた。 だが――その忠義は、最後には皇帝の疑いに屈した。
「おい……おいおいおいおい……!」
門前で騒ぐ人々がいる。
「なんで、袁将軍が。不敗の英雄がこんな目に遭うんだ」
ある男は、ぶるぶる震えながら叫んだ。
「うぅっ、せ、せめて、せめて痛くないようにしてやってくれよお……」
その横で、また別の女性がささやく。
「でも、あの人は裏切り者だから処刑されるのよね……違うの?」
低い声が響いた。
袁崇煥が、手枷を打たれながら歩いてくる。 顔は痩せていた。けれどその瞳は、鋼のように光っていた。
「私はここで死ぬ。しかし、後金軍はまた攻めてくる。有志たちよ立ち上がってくれ!私の代わりに戦うのだ!」
その声に、誰もが言葉を失った。
しばらくして。 処刑台が準備された。 その上に立ったのは――
「ただいまより……袁崇煥に、凌遅刑を執行する……」
民衆の間にざわめきが走った。
「りょ、凌遅刑って……」
誰かが小さな声でつぶやいた。別の誰かが聞き返す。
「それって……何?」
「……一日かけて、肉を少しずつ……千回斬る刑だ」
その説明に、人々がおびえ始める。
「ひいぃぃ……おっそろしいぃぃ……」
「英雄にそんな仕打ち、あり得るかよ……!」
処刑台の上、袁崇煥は一言だけ言った。
「……私は、よく戦った。せめて自分をねぎらおう」
刀が振るわれるたび、群衆がうめいた。
「袁将軍……! 袁将軍ーっ!!」
誰かが叫んだ。
誰もが涙を流していた。
その死に顔は、静かだった。 怒りも、恐れも、なく。
ただ――笑っていた。
英雄の、最期だった。
◯1630年
1630年の北京。
冷たい朝霧が街を包み込んでいた。
その日、国を守った英雄、袁崇煥は、最も残酷な凌遅刑で処刑された。
袁崇煥は明の優れた武将であり、遼東の防衛で幾度も敵を撃退した。
彼の勇気と冷静さは部下や民から厚く信頼されていた。
その刑とは、体を少しずつ切り刻むもので、痛みと恐怖が極限に達する残酷な方法だった。
◆
ホンタイジは後金の若き皇帝である。
彼は袁崇煥の死の知らせを受けていた。
「これで俺の計略は成功した」
側近のドルゴンに向かって、静かに言った。
「袁崇煥は強敵だった。だが、もういない」
だが、ホンタイジの顔には影が落ちていた。
「名将の死は、心に痛みをもたらす。俺にとって、袁はライバルだったからな」
ドルゴンは眉をひそめて答えた。
「陛下、それでも勝利が最優先です」
「わかっている。しかし、俺たちの戦いはこれで終わらない」
◆
范文程、後金の軍師は冷静に計略を練り続けていた。
「袁崇煥という男、最後まで油断ならんかったな」
「彼の死は、我らにとって大きな一歩だ」
ホンタイジは深くうなずいた。
「だが、名将の死を無駄にはできぬ。これからが本当の勝負だ」
◆
戦国の世は冷酷だ。
勝つ者には栄光が、敗れる者には悲劇が待つ。
だが、心に刻まれるのは、英雄たちの生きざまだ。
袁崇煥、その名は歴史に深く刻まれた。




