守城の名将:袁崇煥:第6章:悲運の章①
◯一六二九年(崇禎二年)
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・宴の火、憂いの眼
「勝った!」
その事実が、夜の空気をピリピリと震わせていました。
北京の南にある広渠門の外。そこは兵士たちのキャンプでした。広い草原の真ん中で、大きな焚き火が赤く燃えています。その周りでは、兵士たちが輪になって、まるで子どものようにはしゃいでいました。
「勝ったぞ、俺たちが勝ったんだ!どうだ見たか~~!」
満桂が、腰にぶら下げた大根を振り回しながら、一人でふざけて踊っていました。彼は山東省という山岳地帯出身の勇敢な武将です。戦いになると獣のように吠えて突っ込んでいきますが、一度刀を収めれば、明るくて人懐っこい“村のお兄さん”に早変わりします。
「将軍も踊りましょうよ!」
「……いや、いい。俺の踊りは、剣の中だけだ」
火の影の奥で、袁崇煥が、一人で杯を傾けていました。
彼は文官出身の将軍でありながら、北方の民族、後金との数々の戦いで素晴らしい戦績を上げてきた人物です。武力よりも頭脳を好み、冷静な判断力で軍を動かします。一方で、笑うことも、酔うこともほとんどありません。いつも一人、冷たい炎のような眼差しをしていました。
その横で、祖大寿が壺のお酒を抱えて、ゴクリと喉を鳴らしました。彼は現場で経験を積んだ武将で、兵士たちから絶大な信頼を集めています。
「疾風怒濤の北の軍団が、北京で火龍となり敵を焼き尽くす…か、面白い人生だ。」
「人生……か」
袁崇煥は、焚き火の中で燃える赤い炭をじっと見つめました。
「なあ……祖将軍。なぜ俺たちは勝てたと思う?」
「北京の高速進軍において、満州軍よりも早かったこと。大砲を北京の城壁に設置する事に成功した事…でしょうかな?」
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「趙率教は……」
その時、焚き火のそばに何可綱が、悲しそうな顔で静かに歩いてきました。彼は気弱でいつもお腹を空かせている補給担当です。
「将軍……。趙率教は……どのような最期を遂げられたのでしょうか?」
何可綱の言葉に、袁崇煥の表情が少し曇りました。趙率教は、いつも面白く、兵士たちを和ませる存在でした。しかし、この広渠門での激しい戦いで、彼は命を落としてしまったのです。
「……俺の身代わりになったのだ。あいつの死ぬところまでは見届けられなかった。無念だ。」
袁崇煥は静かに目を閉じ、胸に手を当てました。兵士たちも、趙率教の死を悼むように静まり返ります。
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・次の戦いへの覚悟
「敵は、本気を出していなかった」
袁崇煥の言葉に、その場の空気が急に冷えました。
「おっしゃる通りです。……敵のリーダー、ホンタイジは、明らかに様子を見ていたように思えます。あれは……力を残していた。こちらの出方をうかがっていたような動きでした」
ホンタイジとは、本名を愛新覚羅・皇太極といい、満洲の部族が集まった後金の若いリーダーです。父親のヌルハチの後を継ぎ、頭脳と戦略で明に迫る恐ろしい人物です。
「……つまり、次は大軍で、一気に押しかけてくるってこと、ですか……?」
遠慮がちに声を出したのは、何可綱でした。
「こ、こう……ズババーンって……ほらっ、こう……!」
「言葉で説明しろ。拳を振り回すな」
「す、すみません!」
兵士たちの間に、クスッと笑いが広がりました。
しかし、袁崇煥はまったく笑いません。
その笑顔さえも、なぜか恐ろしいもののように思えました。
「敵は、ただ強くなるんじゃない。考える。学ぶ。そして、変わる。……同じ手は、二度と通じない」
「と、いうことは……?」
「次は、俺たちが変わらなきゃいけない。変わるしか、生き残る道はない」
パチン、と焚き火が弾けました。
その音に、騒がしかった空気が一瞬止まり、火の粉が宙に舞いました。
「敵はまだすべての策を出し切っていない。次はどうくる?」
袁崇煥は、そっと杯を地面に置きました。
空を見上げると、白く冷たい月が、じっと彼らを見下ろしていました。
「勝った時ほど、次の一手を考えろ。……考える者だけが、生き残る」
シン……と、空気が静まりました。
しかし次の瞬間、どこからかまた、あの声が響きました。
「えーっ、つまりまた戦があるってことですかぁ?えええー、もうちょっと休ませてくださいよぉ〜!」
満桂のふざけた声に、またどっと笑いが起こりました。
その笑いの中で、袁崇煥だけは、火の向こうをじっと見つめていました。
──ホンタイジは、必ず来る。 もっと大きな刃を手にして。
だからこちらは、それよりも先に刃を研いでおく。 それが、生き残るということなのだ――。
◯1629年:狼の兄弟
雪が、しんしんと降りしきっていた。
ここは満州。中国の東北地方に広がる、広くて寒い大地だ。
空はどんよりと重たく、吹きすさぶ風は、まるで刀のように顔を切ってくる。
そんな雪山の中に、一張の幕がぴたりと立てられていた。
幕の中、しんと静まった空間で、ひとりの男が火の前に座っていた。
その顔は若く、だが目は深く、鋭かった。
彼の名はホンタイジ(ほんたいじ)。
女真族という北方の騎馬民族の出で、偉大なる王・ヌルハチ(ぬるはち)の八番目の息子だ。
今は、父から国を受け継いで「大金=後金」という国の若き王となっていた。
そのとき、幕が静かに開いた。
「兄上、ご無事でなによりです。……しかし戻ってきて早々、また戦の話でしょうか?」
そう言いながら入ってきたのは、すらりと背の高い青年だった。
鎧は着けず、文官のような書物をたばねた装いである。
名はドルゴン(どるごん)。ホンタイジの弟にして、冷静な知恵で軍を助ける頭脳派だ。
「いや、戦ではない……。お前と話したかったのは、それではないのだ」
ホンタイジは組んだ腕を解かず、火を見つめながら静かに言った。
「……ドルゴン、袁崇煥という男を、お前はどう見ている?」
その名を聞いて、ドルゴンはすっと眉を動かした。
「明の将軍です。敵ながら、戦の腕も、兵の心を掴む術も、実に見事。……まさに、都・北京の守りの要でありましょう」
「やはり、そうか……」
ホンタイジは小さくうなった。
「広渠門の戦。我らが敗れたとはいえ、兵たちはよく戦った。だが──勝ち目はなかったな」
「……ええ。兵の士気も、陣の配置も、すべて奴のほうが上手でした」
「戦では、勝てぬ」
ホンタイジは唇をかみしめ、低くつぶやいた。
だが、すぐに目を上げて言った。
「しかし、勝つ道はある。戦うのではなく──奴の中にある“矛盾”を突くのだ」
「なるほど……朝廷と袁将軍の間を裂くお考えですか?」
「そうだ。あの男は、忠義の士。清く、まじめで、皇帝の命令には絶対に背かない」
「……つまり、その忠義が、逆に弱点となる」
ドルゴンの声が、少し低くなった。
「皇帝が無理な命令を下せば、奴は断れない。理想と現実のあいだで、引き裂かれる。──忠誠ゆえに、破滅する」
「見事な読みだ」
ホンタイジは火に手をかざした。
「こちらが手を下すまでもない。奴が“忠義”に殉じ、朝廷が“忠義”を切り捨てる。そのとき、民の心は、どちらにつくと思う?」
「民は……朝廷を疑い始めるでしょうな」
ドルゴンは、しばし火を見つめた。
「袁将軍のような人物を、内から裂く。……それは、戦より冷たく、恐ろしい策です」
「戦では負けても、心を奪えば勝てる」
その言葉に、火が「ぱち」と爆ぜた。
「お前がいて助かる。策を支えてくれる者が、我が弟でよかった」
ホンタイジが、ようやく笑みを浮かべた。
ドルゴンは、静かに立ち上がり、幕を閉じようとする。
「兄上──私たちにも、矛盾が生じぬよう、慎重に進みましょう」
「冷たさは……強さの一部だ」
そう言い残し、ホンタイジは吹雪の中へと歩み出た。
その背に、ドルゴンは一礼した。
狼の兄弟は、まだ若かった。
だが、その策は、すでに一国を揺るがす鋭さを帯びていた。
◯一六二九年 夜の謀
夜は静かに、重く、深く、王城の奥を包んでいた。
ここは盛京──いまの瀋陽にあたる場所である。遼東に広がる後金の都。
その王宮のもっとも奥深くに「謀議の間」と呼ばれる部屋がある。国の未来を決める策が、いつもここで練られるのだ。
部屋には三人の男がいた。どの顔もただ者ではない。
一人目。
ホンタイジ──別名は皇太極。先代の大汗・ヌルハチの息子であり、後金の第二代皇帝。
戦いでは矢のごとく鋭く、策をめぐらせば蛇のごとく静か。まさに、軍と政の両方で人を圧倒する男である。
二人目。
その傍らに立つのは弟のドルゴン。まだ二十代だが、すでに冷静沈着で知られる知将。
戦場では槍をふるい、会議では一言で人を黙らせる。兄に劣らぬ器を持つと噂される、後金の「影の刃」である。
三人目。
静かに立つその男の名は范文程。かつては明の学者であり官僚。
だがいまは後金に仕え、ホンタイジの側近として数々の策を献じてきた。
冷たく静かなその目には、戦場とは違う知略の炎が宿っている。
ホンタイジが低い声で言った。
「范、来てもらったのは他でもない。──袁崇煥を殺す」
空気が一瞬止まった。
だが、范文程の顔は変わらなかった。まるで、この言葉を予想していたように。
「……戦ではなく、策で、でしょうか」
「うむ」
ホンタイジはうなずき、ゆっくりと立ち上がった。
「正面からでは倒せぬ相手だ。だが、倒れぬ者などおらぬ」
ホンタイジは、かつての戦──広渠門の戦いを思い返していた。
その戦いで、袁崇煥はわずかな兵で我らを撃退し、遼西を守りきった。あの時の明軍は、確かに強かった。
「袁は忠義に厚い。だからこそ、民も兵もついてくる」
ドルゴンが冷たく言う。
「──だが忠義は、ときに毒にもなる」
范文程の目がわずかに細まる。
「崇禎帝は、どう動きましょう?」
崇禎帝──いまの明の皇帝である。若くして即位したが、その実、猜疑心が強く、臣下をすぐに疑う。
「愚かで、孤独な王だ」
ホンタイジが笑った。
「だからこそ、利用できる。──我らはすでに明の役人を金で買っておる」
「……なるほど」
范文程の声に熱はなかった。
「買収した官僚に、袁崇煥が我らと通じていると──そう噂を流させますか」
「そうだ。謀反の疑いをかける」
ドルゴンが続けた。
「疑う者は、真実を見ない。ただ、恐れる」
「袁が戦を終えて都へ戻れば──きっと崇禎は、斬る」
沈黙が部屋を包んだ。
范文程はゆっくりと膝をつき、頭を垂れた。
「この任、謹んでお受けいたします」
「よい」
ホンタイジの目は、氷のように冷たい。
「これは戦ではない。──だが、戦よりも血が流れる」
誰も笑わなかった。
勝っても誰も誇れぬ策。だがそれは、明という巨木の支柱を一本、静かに──確実に、折る。
范文程は立ち上がった。
その姿は、剣よりも鋭く、火よりも冷たかった。




