守城の名将:袁崇煥:第5章:北京の章③
◯1629年:雪を蹴って、北京へ――ホンタイジ(ほん・たいじ)の進軍
白く染まった山並みの向こうに、長城が静かに横たわっていた。
風は冷たい。だが、清という若き国家の軍勢――後金が誇る精鋭たちは、その冷気などものともせず、ひたすら南へと進み続けていた。
この軍を率いるのは、ホンタイジ。建国の父・ヌルハチ(ぬるはち)の息子であり、今や清の大汗つまり、皇帝として父の志を継いでいる。
その日、彼は雪の丘に立ち、北京方面をじっと見つめていた。
「ここを越えれば、明の心臓部だ。」
声は低く、だが熱を帯びていた。
「大都――北京を、奪い取る。」
この言葉に、そばにいたダイシャンがすぐに反応した。彼はホンタイジの兄であり、数々の戦場を共にくぐり抜けた信頼の厚い将軍だった。
「だが、明も黙ってはいないはずです。遼東方面から、袁崇煥が来るかもしれません。」
袁崇煥――明の将軍であり、かつてはヌルハチをも苦しめた男。遼東防衛の要とされ、民衆からも信頼が厚い名将だった。
ホンタイジは、ゆっくりとうなずいた。
「それでも、崩れかけた壁に柱一本くわえたところで、全体は持たぬ。」
そこへ、若い兵士が駆け寄ってきて、息を切らせながら一通の文を差し出した。
「ホンタイジ陛下、北京より急報です!」
ホンタイジは黙ってそれを受け取ると、さっと目を走らせた。
「……やはり、崇禎帝は袁崇煥に命じたか。遼東から援軍を送れ、と。」
「ということは……」と、ダイシャンが眉をひそめる。
「我々の進軍に、本気で脅え始めたな。」
その時、がらりと空気が変わった。
「うっし! やっぱり動いたな、明!」
そう言って現れたのは、快活な声の持ち主、マングルタイ。彼もホンタイジの兄で、部隊の中でもひときわ陽気な存在だった。
「袁崇煥が来るって? そいつは楽しみだな。俺たちがどれだけ強くなったか、見せてやろうぜ!」
「……落ち着け、マングルタイ。ヤツは急いでいるはず。あの大砲までは持ってこれない。」
ホンタイジ(ほん・たいじ)は静かに言い放った。だが、その瞳には確かに闘志が灯っている。
「大砲がないなら、袁崇煥など怖くないですぞ!」
マングルタイ(まんぐるたい)は冗談まじりに笑ってみせた。
そんなやりとりを聞きながら、ダイシャン(だいしゃん)は小さく肩をすくめた。
「……あいつは戦場でも変わらんな。」
そこへ、一人の若者が静かに前に進み出た。
ドルゴン――ホンタイジの弟で、まだ若いが、沈着冷静に戦況を読む目を持ち、軍内でも一目置かれる存在だった。
「兄上、油断はなりません。袁崇煥は遼東の守りを固めた将です。明の中でも、まだ"動く"ことができる武将の一人です。」
その声は落ち着いていたが、確かな迫力があった。
ホンタイジ(ほん・たいじ)は静かに頷く。
「わかっている。だからこそ、ここで止まるわけにはいかぬ。止まるほどに、袁崇煥が北京に近づく。」
彼は再び、前方の雪道を見つめた。
「明はすでに崩れ始めている。袁崇煥とて、その流れは止められまい。」
その声が合図であるかのように、太鼓が鳴った。陣が動き出す。
大地を揺るがすような足音とともに、数万の清軍が、雪原を蹴り上げながら進み始めた。
北京へ。
明の心臓部へ。
この地を制したとき、父の志は真に実を結ぶ。
ホンタイジ(ほん・たいじ)のまなざしは、ただひとつ、南だけを見据えていた。
◯1926年
空は鉛色に染まり、冷たい風が遼東の荒野を吹き抜けていました。軍馬の蹄の音すら吸い込まれてしまいそうな、深い静けさの中──。
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・北京への緊急行軍
袁崇煥は馬の上から、凛として口を開きました。
「北京から正式な救援要請が来た!……今から北京へ向かう。出るぞ。」
袁崇煥は、明という国で遼東地方の守りを任された名将です。文武両道に優れ、どんな戦いでも冷静に勝利をつかんできた男でした。
しかし、今回ばかりはその声に少し焦りが混じっていました。
北の強国、清の軍隊が長城を突破して南へ攻め込んできているのです。明の皇帝である崇禎帝本人が、「至急来てほしい」と必死に助けを求めている状況でした。
「急ぎましょう。手遅れになれば、民の命が失われます。うぉ~~!待ってろよ!北京!」
そうハイテンションに言ったのは、破天荒な満桂でした。彼はもとは北方の出身ですが、誠実で冷静さのカケラもない男です。派手な活躍で、数々(かずかず)の手柄を立てて将軍になりました。口調は乱暴ですが、心には強い決意が宿っています。
「袁将軍、無理な行軍は、馬がもたないかもしれませんぜ?人間より先に馬が疲れ果てちまいますよ!」
大きな体に重厚な風格と重厚な腹を抱えた皮肉屋の祖大寿が、泡を飛ばしながら叫びました。見た目は豪快ですが、細かい戦術に長けた天才で、計算ずくの変則戦法を得意としています。
「安心しなされ。中継地を確保して、馬を交代させる用意をしていますぞ。ウマだけに、ウマいこと考えるでしょワタシ!」
面白いおじさんの趙率教が進言しました。彼は几帳面で、軍の行軍や連絡網の整備に優れています。
「どこかで米を確保しつつ、ついでに馬も買えば、更にいいんじゃないっすか?腹減って動けなくなっちゃいますよ、へへ。」
気弱でいつも腹ペコな補給担当の**何可綱は、兵站や輸送に通じた調達屋です。ですが、実は戦場では、槍も振い、戦いの場でもすぐに活躍する男です。
袁崇煥は、口元をかすかに上げました。
「役割はそれぞれだ。走れる者が道を切り拓け。俺たちは北京の盾となる。」
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・北京へ急げ!
その言葉に、将たちは次々(つぎつぎ)と馬を駆りました。
まず、満桂が静かに走り出しました。
「騎兵隊は、先行して山を越えますぞ。早ければ、敵の背後も取れるかもしれんからな!ひやっほ~~い!」
険しい山道も、無言で越えてゆく満桂の部隊は、奇襲を得意としています。
祖大寿はうなり声を上げました。
「この川沿いの道を使えば、一日分は短縮できる……さらに、水深が浅ければ渡河も考えましょうぞ!」
地図を改良し、村を迂回してスピードルートを切り開く祖大寿の部隊です。
趙率教と何可綱は補給と馬の交代を素早く調整しました。
「この村じゃ粟しかないけど、酒はあったぞ!」
「あんた、馬に酒飲ませる気かよ。自分こそ酔っぱらってんじゃないのか?」
そんな漫才のようなやりとりも、兵士たちの疲れを和らげていました。
凍える風が頬を刺し、雪混じりの雨が鎧を打ちます。
しかし、そのたびに袁崇煥は、低くつぶやきました。
「間に合わせる……遅れは許されん。」
軍は疾風のごとく、南へ。
北京まではまだ数百里あります。
ですが、男たちの心はすでに隼よりも早く駆け、都の門を叩いていたのです。
◯1629年
都の空に、太鼓の音が鳴り響きました。
それは、ふつうの太鼓ではありません。戦鼓です。命がかかったときにしか鳴らない、血と鉄の音でした。
西直門が、ついに――破られそうになっていたのです。
敵は後金の選ばれた先行部隊です。馬に乗った兵士たちが門を蹴るたびに、木の柱が悲鳴を上げました。
宮中は騒然としていました。
「なんじゃと、満州軍が攻めてきたとな?いったいどこからじゃ??」
「遼東は破られていない。モンゴル高原を大きく迂回して、明軍の防衛が手薄な地域から北京にやってきたのだ!」
「こ、これはもうだめじゃあ!われらは終わりじゃああ!」
髭を揺らして叫ぶのは、礼部の年老いた役人です。足が震えて床を叩いています。
「な、なにゆえ援軍は来ぬのじゃ!?誰ぞ、袁崇煥将軍の所在を知らぬかっ!?」
「遼東にいると聞いておりまする!今更呼び寄せても、間に合うはずなど……」
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まさかの援軍
その時――
「城門に軍旗が!」
「え!?敵の援軍か!?いよいよ都もおしまいか……!」
「いえ、ち、違いまするッ!“袁”の字が……袁の軍旗でございまする!」
門番が叫びました。
まさか、と誰もが思いました。
袁崇煥の軍は遼東にいました。 北京とは、千里の道のりです。雪に閉ざされ、山や川を越えなければならない距離でした。
だが、来たのです。
――電光石火のごとき速さで。
「まさか、袁崇煥の軍は翼を生やしてきたというのか?」
「天の助けじゃ!神の援軍じゃ!」
軍馬のたてがみは氷を砕き、車輪は泥をかき分けていました。
雪の原を、風のように。 道なき道を、風より速く。
「開門ッ!!袁将軍の軍を、都に入れよッ!!」
門が、軋む音をたてて開きました。
その先に見えたのは、漆黒の鎧をまとった将―― 袁崇煥でした。
その顔は、吹雪で裂けたように荒れていました。 目は、氷よりも鋭く。声は、鉄よりも重かったのです。
「遅くなりました。袁崇煥参上!」
それだけを言うと、彼は馬を下りました。
後に続いたのは、満桂と祖大寿、趙率教、そして気弱で腹ペコな何可綱らの歴戦の部下たちです。
「将軍んん~!マジで間に合ったんすかぁぁ!?よっしゃ~~~!」
ハイテンションで破天荒な満桂が、絶叫します。
「ワターシ、感動で鼻水と涙と上から下から、いろいろ出てますぅぅぅ!」
趙率教は
「下からは出すな!戦の準備だ!」
「は、はいっ!」
皮肉屋の祖大寿が続きます。
「袁将軍、まさか三日で来るとは……兵も馬もみんなヘロヘロですぞ!今すぐは戦えません!」
「まずは食事と休息だ。命を懸けた俺たちの軍には北京の名物料理をふるまってもらおう。それまでは北京の城壁が持ちこたえてくれるさ。」
「いや~、電光石火っすね我が軍は!」
満桂は、静かに微笑みました。
「間に合って、よかった。」
「敵は、もう来ているのか?」
「西直門の外に集結中です。門を壊せば突入してきます。」
「なら……俺たちが、内からぶつかってやるだけだ。」
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・皇帝と民衆の歓喜
その後、紫禁城にて、皇帝に会けんした袁崇煥。皇帝の玉座から声が飛びました。
「袁卿――朕は、よくぞ参ったと申したい!」
それは、崇禎帝でした。
まだ若いですが、聡明で知られる明の皇帝です。
「朕は、おまえに……都の防衛、すべてを任せたい。よいな?」
「……命令とあらば。」
袁崇煥は、ぴたりと頭を下げました。
「袁将軍、ばんざーい!!」
「ばんざーいっ!!」
城下の人々(ひとびと)が叫びました。
老いも若きも、目に涙をためていました。
ある者は炊き出しを始め、ある者は兵にお茶を運びました。
子どもたちまで、勝手に軍歌を歌い出しました。
街は歓喜の渦でした。
「都は、救われた!」皆がそう思ったのです。
男の名は、袁崇煥。 遼東の勇将。無数の戦場をくぐりぬけた男。
そして――都に、三日で戻った疾風迅雷の将でした。