守城の名将:袁崇煥:第5章:北京の章②
◯1628年:袁崇煥の自宅にて
冬、冷たい風が吹き荒れる北京。将軍、袁崇煥の家では、囲炉裏の火がパチパチと音を立て、温かく客人を迎えていました。
________________________________
・遼東の防衛者たち
「みんな、よくやったな。」 囲炉裏を囲みながら、袁崇煥は静かに話しました。彼は、満州族(後の清)との戦いで、二度も敵の攻撃を退けたすごい武将です。
「いやいや、あれは袁大人のスーパーでハイパーな指揮があったからですよ!」
にこにこと笑いながら答えたのは、満桂でした。彼はいつも元気いっぱいで、戦場でも真っ先に敵に立ち向かう勇敢な将軍です。
その場には、袁崇煥が信頼する部下たちが勢ぞろいしていました。皮肉屋の祖大寿、面白いおじさんの趙率教、そして気弱でいつもお腹を空かせている補給担当の何可綱です。
________________________________
・ホンタイジの新たな動き
「だが、これで終わりじゃない。」 袁崇煥の表情は、ふと引き締まりました。
「ホンタイジか……。」 彼の頭に浮かんだのは、満州族のリーダー、ホンタイジ。戦上手な父ヌルハチの跡を継ぎ、兵を巧みに操る男です。
「将軍、ホンタイジの動きですが、またわっさわっさと攻めてくる気配がありますよ。懲りる事の知らんのでしょうかな?」
真剣な顔で報告したのは、面白いおじさんの趙率教でした。彼は敵の動きをいつも正確に把握しています。
「うわぁ、また来るのかよ……。補給どうしよ…」 小声でつぶやいたのは、何可綱でした。彼は心配性の補給担当です。
皮肉屋の祖大寿は、冷たく言い放ちました。 「やれやれ、また面倒なことになりましたな。どうせ騎馬民族の誇りガ~って言って攻めてくるのですぞ。」
________________________________
・将軍の妻、黄青桂
そのやり取りを聞きながら、部屋の隅でお茶をすすっている女性がいました。袁崇煥の妻、黄青桂です。彼女は明るくて、ちょっとおっちょこちょいな性格で、その場の雰囲気を和ませてくれます。
「まあまあ、まあまあ、焦ってはいけませんわ。ホンタイジさんが来るなら、それもまた一興ですし。」 と、鼻歌交じりに言い放ちます。
「お義理立ては良いけど、慌てて行動してもろくなことになりませんわよ?」
そのとぼけた口ぶりに、みんなの緊張も少しほぐれました。
「……ふっ、たまには良いことをいうな。」 袁崇煥も、思わず笑みをこぼしました。しかし、次の瞬間。
「たまに?失礼な。いつもですわ!」というツッコミが入ります。
________________________________
・北京への危機
「将軍、ところで…ワターシの勘違いかも知れませんが…」 趙率教がふと身を乗り出しました。
「今回、わざわざ北京のご自宅まで私たちを呼ばれたのは……何か、特別な理由があるのでは?」
その一言に、全員の目が一斉に袁崇煥に注がれました。
将軍はしばらく黙った後、重い口を開きました。
「勘違いではない……実はな、懸念があるんだ。」
囲炉裏の火が、パチリと音を立てました。
「ホンタイジは、これまでのようには攻めてこないだろう。今度は、まったく別の道を選ぶ可能性がある。」
「別の……道ですか?」
「そうだ。遼東の守りが堅いと見るや、ホンタイジは河北や内蒙古を回り、別のルートから──つまり、直接北京を狙ってくるかもしれん。」
静まりかえった部屋に、薪のはぜる音だけが響きました。
「な……なんですって!?ど、ど、どうしよう」 思わず声を上げたのは、何可綱でした。
「北京が狙われるんですか!?ここが戦場になるってことですか!?な、な、なんということでしょう」
「それゆえ、お前たちをここへ招いた。」 袁崇煥の声は、凛として静かでした。
「敵がどの道を取ろうと、俺たちは迎え撃つ。遼東に防壁を築きつつ、都を守る備えも同時に進めなければならぬ。」
「……閣下。」
趙率教も、その決意に深くうなずきました。
「俺たちの使命はただ一つ──敵を通さないこと。」
祖大寿もまた、一歩進み出て頭を下げました。
「やれやれ、面倒な敵ですな。ですが、命に代えても、守ってみせましょう。」
その熱に打たれたように、何可綱も胸を叩きました。
「補給担当として、皆さまを腹ペコにはしませんぞ!」
そんな中、妻の黄青桂がちゃぶ台のお茶の道具を軽く揺らしながら言いました。
「じゃあ、私も茶葉を多めに買っておかなくちゃ。お客様が増えるのは大変ですもの。」
──全員が、吹き出しました。
しかしその夜、誰もが思っていました。 次の戦いは、すでに始まっていると。
◯1628年 灰の空の下で
――陝西の空は、灰色だった。
空は晴れず、風は冷たく、地面はひび割れていた。ここは中国の西にある陝西省――かつて多くの王朝が栄えた歴史の地。しかし今、この地には命の気配すら感じられなかった。
「食べ物が……ない……」
やせ細った青年が、ふらふらと歩いていた。目はうつろで、唇はかさかさに乾いていた。畑はひからび、井戸の水も枯れてしまった。ここ数年、雨はほとんど降っておらず、人々は飢えに苦しんでいた。
道ばたでは、老人が石に腰かけていた。子どもを背負った母親が、か細い声で「水をください」とつぶやいていた。
――どこを見ても、絶望だけが広がっていた。
________________________________
「俺たちは……盗賊になるしかねぇ!」
そのとき、誰かが叫んだ。その声に、道にうずくまっていた者たちがはっと顔を上げる。
「盗むしか、生きる道はないんだ!」
それは、ただのあきらめではなかった。生きるための、必死の決意だった。人々は立ち上がり、手に棒やくわを握った。弱者が団結し、やがてそれは“反乱軍”となった。
その中に、一人の青年がいた。名を――李自成。
彼は貧しい家に生まれ、もとはひとりの郵便配達の仕事をしていたが、飢饉で家族を失い、自らも盗賊となった。だが、ただの盗賊では終わらなかった。彼は仲間を守り、戦い方を教え、人々をまとめ、やがて「義賊」として名を上げていく。
「民を苦しめるのは、誰だ? 俺たちは戦うぞ!」
李自成の声に、人々が応えた。子どもも、老人も、農民も、彼の周りに集まっていった。反乱軍の旗の下、彼はどんどん力をつけていく。
________________________________
一方そのころ、都――北京では、新しい皇帝が即位していた。名を**崇禎帝**という。彼は1627年に若くして皇帝となり、明という国を立て直そうと努力していた。
「この国を、立て直したい……!」
彼の目には、まっすぐな正義があった。だが、待っていたのは嵐のような試練だった。次々と襲う飢饉、反乱、官僚の裏切り――すべてが、彼の心を削っていった。
ある日、側近が報告を持ってきた。
「陝西で、新たな反乱軍が現れました。名は……李自成と申します。」
「李自成……!」
崇禎帝は、ふっと息を飲んだ。何度も耳にしていた名前だった。だが今、それは現実となり、王朝そのものを脅かそうとしていた。
________________________________
李自成の軍は、日々大きくなっていった。彼が動くと、民がついてきた。
「崇禎帝は、もう終わりだ!」
彼はそう叫び、都をめざして進軍していた。――この戦いは、ただの反乱ではなかった。歴史そのものを変える、巨大なうねりだった。
________________________________
その夜、崇禎帝はひとり、宮殿の奥に座り込んでいた。玉座は大きく冷たく、風の音がどこか寂しげだった。
「……俺は、もう何をしても無駄なのか?」
皇帝の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。策を練っても、次々に無駄になる。官僚たちは争いばかり、民は飢え、敵は増えていく。
――けれど。
「まだだ。俺は……まだ終わらん!」
崇禎帝は立ち上がった。震える手で剣の柄をつかむ。疲れていても、望みが見えなくても、それでも彼は、最後まで諦めなかった。
「民を守るため、戦うしかない!」
その声は、遠く届くことはなかったかもしれない。しかし――それでも、皇帝としての最後の意地が、そこにはあった。
________________________________
そして歴史は、静かに、動き出していた。
灰色の空の下で。
飢えと絶望の中から、ひとりの男が希望となり。
玉座の奥で、ひとりの男が闇に抗い続けていた――。
◯1629年
長城を越えて
冷たい北風が、草原の上を吹き抜けていく。
その風の中、ひとりの男が、じっと地図を見つめていた。男の名はホンタイジ。大清の皇帝であり、偉大なる建国者・ヌルハチ(努爾哈赤)の息子である。彼の目は鋭く、静かだ。冷たい目をしているが、その内に燃えるのは、父から受け継いだ炎のような闘志だった。
「やまり、山海関の守りが堅いな……」
地図を指でなぞりながら、ホンタイジが静かに言った。山海関は、明の要塞だ。そこを無理に突破しようとすれば、大きな損害が出るのは明らかだった。
すぐそばに立っていたのは、兄にあたるダイシャン(代善)。頼れる武将であり、父ヌルハチの代から戦場を知り尽くしている男だ。
「では、どうなさいますか、陛下?」
少し緊張を含んだ声に、ホンタイジはふっと笑みを浮かべた。
「回り込むのだ。薊州へ出る。」
「薊州……長城を越えるのですか?」
「そうだ。正面から挑むのは賢くない。道はある、我らには味方がいる。モンゴル族だ。」
かつて敵対していたモンゴルの諸部族も、いまではホンタイジの巧みな交渉と婚姻政策によって、味方として従っていた。そのモンゴル高原を通って、明の背後を突く策。冷静かつ大胆、それがホンタイジという男である。
「進軍だ!」
号令をかけると、軍の先頭で声を張ったのはマングルタイ(莽古爾泰)。ホンタイジの弟で、血気盛んな武将である。
「進めぇっ! 遅れるなぁ! 急げ、急げっ!」
大声で軍をあおるが、せっかちすぎて隊列が乱れ始める。
「こら、マングルタイ。勝手に動くな。」
冷たい声が飛ぶ。ホンタイジだった。
「……す、すまん。」
さすがに皇帝の一喝には、マングルタイも顔を引きつらせて黙るしかなかった。
軍はゆっくりと、モンゴル高原の南を通って薊州へと向かった。モンゴルの部族たちは道を案内し、清軍を迎えてくれた。冬の乾いた風のなか、草のにおいをまとった馬たちが並んで進んでいく。その様子は、まるで雲のような動きだった。
だが、途中でホンタイジが声をあげた。
「ドルゴン(多爾袞)はどこだ?」
ドルゴンはホンタイジの異母弟で、まだ若いが、戦場でも政治の場でもよく働く知恵者だった。その姿が見えないと知るや、数人の騎兵が駆けていく。
ほどなくして、馬に乗ったドルゴンが姿を見せた。
「遅れて申し訳ありません、兄上。」
彼の衣には草の跡があったが、落ち着いた表情だった。
「モンゴルの村を通っていたので、道が分かれたのです。ですが、地形と村の配置は確認済みです。」
ホンタイジは黙ってうなずいた。
「ならばよい。」
ドルゴンの冷静な言葉に、周囲の兵たちが小さくざわめいた。若いのに、慌てず、動じない。誰もが彼の才を認めていた。
「……さすがだな、ドルゴン。お前はいつも落ち着いている。」
マングルタイが笑いながら言うと、ドルゴンは淡々と答えた。
「急いでも、勝てるものではありませんから。」
ホンタイジの目が細くなった。一族の結束が、彼にとって何よりの力だった。
こうして、大清の軍勢は、長城を越えて進み始めた。誰もが予想していなかった南下の道。冷たく、静かに、だが確実に、彼らは歴史の扉を開こうとしていた──。




